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2017年12月07日14:10

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テレビを見れば。。。。part0199


 さっそく、さっそく、さっそくだよ(怒)!前々回、憂いた「人民の天皇」プロパガンダがさっそく始まりやがった(激怒)!ぐぞーーーーーーーー(ToT)(ToT)(ToT)、ホンと何とかならんのか?わかっちゃいたけどさ、翌日からさっそくやられるとさすがに凹むわ(ToT)。おとといNHKで「NHK特集・皇位継承へ 素顔の"新天皇"」なる「奇怪な番組」が放送された。これは「皇統廃絶革命」を策する極左勢力が


全国の同志に「人民の天皇」プロパガンダへの参加を呼びかけた狼煙だ(怒)!


始まるぞ、かつてフランス国王をギロチンへと送り出した君主降格プロパガンダ「人民の天皇」論が(怒)。みんな、そのあまりにも大きな「危険性」がわかってない(怒)!「敵」は即位に「10連休」をぶっつけて「理神論式カーニバル」を着々と準備しつつある。なのに誰も保守的立場から


「対抗(カウンター)・プロパガンダ」を打とうとはしない(ToT)。


「理神論式カーニバル」が成功すれば成功するほど頭の麻痺した「自称・国民」は「皇統廃絶革命」への抵抗感を失っていく。即位と同時に新帝陛下は祭祀をはじめとする「伝統的君主権限・権能」を必ず「剥奪」されていくだろう(ToT)。わかりきっている(怒)。はーーーーー、やっぱり俺は間に合わなかったのか(ToT)?あまりにも展開が速すぎる(怒)。大体、日本における


「君主号」の法学的解析の「不在」さえ誰も理解しようとしない(ToT)。


あまりにもデタラメにデタラメを重ね合わせた為に「全国民」がこの問題について「存在」そのものを忘却してやがる(怒)!だから、極左勢力の簡単なプロパガンダにあっさり押し切られるんだよ(怒)。大体、それ無しでみんなどうやって「対抗(カウンター)・プロパガンダ」を打つつもりだったんだ?すこし、問題を整理しよう。まず抑えておくべきことは


「天皇」は「皇帝(エンペラー)」であり、同時に「皇帝(エンペラー)」ではない


という事。きょとんとしている人が多いと思うが、これは厳格な「歴史的事実」。「天皇」の旧君主号を「倭国王」という。正確には対内的は祭祀王「すめらみこと」であり、対外的には「倭国王」だ。「皇帝(エンペラー)」には本質的に二つの意味がある「独立文明の対外的主宰者」という意味と、「一国の対内的軍事主導者」という意味だ。チャイナ式の皇帝制度は前者としての意味合いが強く、ヨーロッパ式の皇帝制度は後者としての意味合いが強い。ここまでOK?そして、もうひとつの重要要素か


チャイナ式の皇帝制度において「国王」は皇帝の「臣下」とみなされる


ということ(怒)。これには実に複雑な「経緯」が含まれるのでとりあえず仔細は割愛する。秦のチャイナ大陸統一以降、日本の「国体」と「君主号」はこの「野蛮な中華思想」に翻弄され続けた(ToT)。こっちが圧倒的に強ければ、せせら笑って「無視」すればすむだろう。だが、大変残念なことだが歴史の大部分においてチャイナの国力は政治的・軍事的・経済的そして致命的なことに文化的に日本に「優越」していた。いやな話だか厳格な「歴史的事実」だ(-_-;)。この二つを頭に入れた上で時間がないので簡単にチャートして説明する。


1、南九州の一部族が大和地方に海路移住する。(神武建国、紀元前60年頃?)
             ↓
2、北九州と韓半島南部を支配するナ国の首長がチャイナの漢帝国に「朝貢」し「奴国王」に任じられる(奴国王朝貢、57年)
             ↓
3、大和の首長・帥升(孝安天皇?)が漢帝国に遣使し「倭の主権」を主張するも追い返される(倭面土国王遣使、107年)
             ↓
4、大和の首長が出雲国を制圧し日本列島をほほ掌握する(倭国大乱終結、200年前後)
             ↓
5、大和の首長(崇神天皇)が日本全体の祭祀王「すめらみこと」に即位する(倭王国成立、229年?)
             ↓
6、列島統一後の韓半島政策遂行のため偽装君主「卑弥呼」をたて魏王朝に遣使する。(「卑弥呼」の遣使、238年)
             ↓
7、あまりに酷い魏王朝の「内政干渉」にこりごして魏王朝と断交する。(対魏断交、266年)
             ↓
8、満州族・高句麗王国が楽浪郡(現在の平壌)へ侵攻。韓半島をめぐる日満対立始まる。(楽浪陥落、312年)
             ↓
9、日韓連合軍(百済王国軍)が平壌へ侵攻、故国原王を討ち取る大勝利を収める。(平壌の戦い、371年)
             ↓
10、故国原王の息子・好太王が漢城(現在のソウル)に侵攻。(好太王戦争始まる、391年)
             ↓
11、好太王戦争での劣勢に外交攻勢をかける為、倭王・讃(仁徳天皇)が南朝に遣使する。(倭の五王の遣使、413年)
             ↓
12、外交攻勢の甲斐なく漢城(現在のソウル)が陥落。熊津(現・忠清南道公州市)に遷都する。(百済南遷、475年)
             ↓
13、役立たずの対南朝外交を停止する。(対南朝断交、513年)
             ↓
14、親チャイナ派の筑紫君(旧・奴国王)を制圧して、九州を直轄領に組み込む。(筑紫君磐井の乱、528年)
             ↓
15、大伴金村が任那・日本府を自己解体。韓半島からの撤退を開始する。(任那・日本府の滅亡、540年)
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16、北朝系諸部族の内部抗争により高句麗が満州に侵攻。(チャイナ・高句麗戦争始まる、598年)
             ↓
17、北朝系隋帝国に遣使、対チャイナ対等外交を試みる。(遣隋使の派遣、600年)
             ↓
18、対外国号・君主号をチャイナ王朝・皇帝と対等の「日本」「天皇」に変更する。(日本帝国成立、607年)
             ↓
19、新羅王国の日唐「両属」を認め、韓半島から撤退する。(新羅王国成立、668年)
             ↓
20、満州族・高句麗王国の亡命政権・渤海王国の服属を認め「修交」する。(渤海王国服属、720年)
             ↓
21、新羅王国が日本帝国との「修交協定」を無視を続けたため国交を断絶する。(対新羅断交、780年)
             ↓
22、小中華思想に狂った新羅人が海賊となって日本各地を襲撃する。(羅寇始まる、811年)
             ↓
23、「馬鹿女」真聖女王が即位し新羅王国が空中分解する。(新三国時代始まる、887年)
             ↓
24、菅原道真の建議によりチャイナ・唐王朝と断交、「絶界政策(鎖国)」始まる。(遣唐使の廃止、894年)
             ↓
25、南下した渤海王国が後百済を滅ぼし高麗王国を建国、対日断交する。(高麗建国、936年)


ふーーーーー(-_-;)、これで日本外交史前半1000年分が終了。そしてここから国家間の「修交」を拒絶しつづけ「独自文明」を形作った「絶界政策(鎖国)」時代の後半900年分と、国家間の「修交」を「再建」せんと苦闘しつづけた「近世」200年分があるんだけどちとつかれた。これだけでも日本の「皇室伝統」がわが国の「対外政策」と密接に繋がって形作られてきた事がよくわかるだろう。詳しい解説はチャートを再掲しながら近日中にアップする。また「絶界政策(鎖国)」時代の900年分と「近世」200年分のチャートと解説も別項にて近日中に早急にアップする予定だ。本当は「法制通史概論」の方でゆっくり語るつもりだったが、もう本当に時間がない(ToT)。拙速は承知の上で「対策」を急がねばならない(怒)。ほんと、誰かかわりにやってくれ!とほほ。



おまけにみくしー検索かけてみました。


「君主号」

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