すまん、これだけは貼らせてくれ。あまりにも、中途半端に中断したんでイライラしてきた(-_-;)。後ろ髪惹かれる思いだがこれで中断する。というわけで、日本法制通史概論第13弾完成版いきます。
さてと、話を続けますか。前回、「大成功で大失敗だった第二次対チャイナ外交」まで行った。いよいよ、終わったはずの「戦争の悲劇」が再開されてしまったという話しに行きます。今から、1700年前、日本は第12代景行天皇のもとで平和裏に統治されていたが、大迷惑なことにチャイナ大陸で大内戦がオッパじまったのだ。これを「八王の乱」という。仔細は省く書くのも馬鹿馬鹿しいとしか言いようのない皇位継承をめぐる低劣な権力闘争による内戦だ。一度調べてごらん。意味不明で何がどうなっているのか良くわかんない「馬鹿騒ぎ」なのが良く判るから(-_-;)。だが、これがもたらしたものは日本を含む周辺諸国全てを戦火に叩き込む最低・最悪の大動乱だった。
民族大移動が始まった
のだ。ちょっと話が戻るが、今から2200年前、チャイナ大陸に「大漢帝国」が成立したのと同時にモンゴル高原に「大匈奴(フン)帝国」が成立した。そして、両帝国は成立と同時に激突した。そして、戦闘民族・匈奴(フン)族は緒戦で大漢帝国初代皇帝を生け捕りにする大勝利を収めたのだ。以後、「漢帝国」は実質的に「大匈奴(フン)帝国」の属国になった。そして、その80年後、国家体制を整えた「漢帝国」は反撃に出た。名将、衛青・霍去病(おそらく二人ともフン族)を奴隷身分から抜擢し騎兵部隊を編成させて全面戦争へと打って出た。この「漢・匈奴戦争」は休戦をはさみながら実に300年間も続いた。300年間も続いたのだ。絶句。チャイナもフン族もドンだけ「戦争好き」なんだよ(-_-;)。日本人に生まれて本当に良かったよ(-_-;)。ここで少し、「大匈奴(フン)帝国」をはじめとする騎馬帝国を作った遊牧民たちについて軽くコメントしておきたい。3つ覚えておいて欲しい。よく、誤解される点だからね。
� ⇒桂厂韻麓輓帖�採集民の末裔ではなく(有畜)農民の末裔であること。
�◆⇒桂�(フラフラ動く)しておらず、決まった牧地(天然牧場)と冬営地(牧場)の間を往復するプロの飼畜業者であること。
��、生活全体を商業経済に依存しながら自らは商業そのものを行わないこと。
だ。これは今でもそう。かれら平和な飼畜業者達は2800年前、騎乗法を開発し短弓戦術と組み合わせることによって戦闘民族へと劇的に変化していった。その軍事的優位はそれから実に2600年間続いた。ま、くわしくは執筆中のロシア・東欧史概論の第二段で書くとして話を元に戻そう。2120年前再開された「漢・匈奴戦争」は主として内モンゴル地区の争奪戦となった。なぜなら、そこにはフン帝国本隊の冬営地(牧場)が置かれていたからだ。遊牧民にとって冬営地(牧場)こそ御家で本拠であり、家財・備蓄はそこにあるのだ。当然、凄まじい激戦になった。だが、機動戦を本分とする騎馬隊を主力とするフン帝国は敵本土に隣接する拠点の防衛には不向きだった。伊稚斜単于率いる戦闘民族フン族は20年間の抗戦で凄まじい損害(一説には漢の人口の1/3が死んだという)を漢帝国に与えた後、歯噛みしながら本来牧地(天然牧場)である外モンゴルに新冬営地(牧場)を建設するために撤退していった。日本建国の端緒ともなった2100年前の漢帝国の韓半島侵攻はこのフン族に内モンゴル地区に変わる冬営地(牧場)・交易地を与えないために行われた攻撃的な先制防御作戦だった。その後、内モンゴルととも河西回廊の商業ルートを失ったフン族は東胡(モンゴル族)、月氏(アーリア系遊牧民、今のアフガン・タジク人)、丁令(トルコ族)に離反され、本来ただの牧地にすぎない外モンゴル地区に閉じ込められてしまったために2050年前に漢帝国と停戦協定を結ぶ。が、2000年前に新王朝の王莽が停戦協定を破ってフン帝国に内政干渉を試みたため戦争が再開される。
始末に困った後漢の創始者、光武帝は一計を策す。フン族本来の根拠地である、内モンゴル地区中部とオルドス地方の返還を条件にフン帝国の武将たちに漢帝国側に寝返るよう政治工作を行ったのだ。これは大成功した。たちまちフン族は分裂した。再開された「漢・匈奴戦争」は実質的には匈奴の内戦に転化した。このとき、漢帝国側に寝返った側を「南匈奴」といい、モンゴル高原に残ったフン帝国本隊を「北匈奴」という。1900年前、ついに後漢帝国から全面的軍事支援をうけた「南匈奴」軍がモンゴル高原に残ったフン帝国本隊を撃破、西方草原に駆逐しついに300年間続いた「漢・匈奴戦争」は後漢帝国の全面勝利の形で終結した。だが以後、「南匈奴」は皇帝直属の同盟部族「五部匈奴」として山西省に移住しなんと漢帝国「国内」に居座ってしまったのだ(笑)。これは困った(笑)。効き目の強い薬はたいがい副作用も強烈なもんだ。後漢帝国が強力な間は良かった。反乱鎮圧や外征の時、「五部匈奴」はここぞという時に投入される「精鋭部隊」として使われた。また、「三国志」の時代には多くのフン族が衛青・霍去病と同じように傭兵として登用された。一番有名な例では呂布がそうだろう。呂布はハチャメチャな男だったがそれでも自分は漢族だと思ってたし少なくとも漢族になろうとした。でも、「五部匈奴」は違った。自分たちを征服した漢族を文明人として「畏怖」している間は「精鋭部隊」として漢の皇帝に仕えた。しかし、「三国時代」そして狂気そのもの「八王の乱」の「馬鹿騒ぎ」を見て「畏怖」が「軽蔑」そして「蔑み」に変わったとき集団心理にコペルニクス的転換が起こった。
「五部匈奴」は漢族に「なる」のではなく、漢族を「支配」することを決意した。
1700年前「八王の乱」でチャイナの中枢機構がマヒ状態になっている時、「五部匈奴」は首長劉淵を「大単于」に載戴し、5万騎の騎兵隊を編成すると一挙にチャイナの首都・洛陽へと殺到した。一発だった。だが、戦闘民族「五部匈奴」は高い戦闘能力を誇ったが残念ながら肝心要の統治する能力が無かった。人の殺し方わかっていても人の生かし方わかってなかったわけだ(-_-;)。さいてーー。後は地獄のような大混乱が始まった。国境は軍隊が内戦に全面投入されてしまったのでガラガラとなりフン族だけでなくモンゴル族、アーリア族、トルコ族、チベット族が我も我も押すな押すなとチャイナ国内に殺到した。核戦争も無いのに、ヒャッハー・DQNのパラダイス「リアルマッドマックス」「リアル北斗の拳」の世界が出現してしまった訳だ(黒笑)。チャイナ史ではこれを「五胡十六国時代」と呼ぶ。チャイニーズが自分のドジで苦しむだけならそれはそれでいいのだが何の関係も無い日本もこの「地獄の馬鹿騒ぎ」におもいっきり巻き込まれてしまったのだ(怒)。それは、次回語ろう。
おまけにみくしー検索かけてみました。 ま、あるわけねーーか。歴史面白いのに。とほほ。
「五胡十六国」
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