先日、日記にもアップした、chatGPTplus、通称Chat美との会話。
もともとは、生成AIといわれるchatGPTをはじめとするAIが今のようになるのに、決定的な役割をした人はいるの?という疑問だった。
たとえば、サム・アルトマンがいなかったら、chatGPTはできなかった?というように。
答えはたいへん面白く、アラン・チューリングからはじまるコンピューターの歴史から始まり、複数の発明や発見が、いつしか結びついて今のような形になった、という話だった。
興味をもっていただいたなら、数日前の日記をさかのぼっていただけると幸いです。
その中で、印象に残ったところがあって、ここ数日、頭の中で反芻していた。
↓以下
そして、もう一つの「意外な出来事」があります。
人類がインターネットに大量の文章を書いてしまったこと
こちらは生成AIにはさらに重要です。
仮に1990年代にTransformerの理論だけ発明されていたとしても、ChatGPTのようなものを作るのは相当難しかったでしょう。
**学習させる文章が圧倒的に足りないからです。**
ところが人間はその後30年間、
ウェブサイト、Wikipedia、ニュース、論文、掲示板、ブログ、プログラムコード、電子書籍……
と、ものすごい量の人間の知識と言語活動をデジタル化しました。
もちろん現在のAI開発ではデータの権利や利用範囲が大きな論点になっていますが、技術史として見ると重要なのは、
人類がAIを教育するためではなく、自分たちのために巨大な「デジタル言語世界」を先に作ってしまった**
ということです。
↑以上
俺は、ここで言われていることにすごく似た話を、小学校のころのSF小説で読んだと思ったのだ。
図書館で見つけた本でね。
『合成怪物』というタイトルで覚えている。
大人になってからも、何かの拍子に思い出し、また読みたくなった。
子ども向けのSFだったので、ひょっとしたら大人版の翻訳もあるのかもしれないと期待した。
まだインターネットの黎明期。
ダイアルアップ接続の時代じゃなかったかな。
Googleも今ほどメジャーじゃなく、ググるという言葉ができる少し前だったと思う。
当時読んでいた、本の雑誌でホームページが作られてさ。雑誌に記事を書いている人たちが質問に答えてくれるコーナーがあった。
そこで俺は、この『合成怪物』の大人版の翻訳はありませんか?と質問したのだった。
SF翻訳家として、今でも活躍している大森望氏が答えてくれたと思う。
大人版はありませんが、たまにこのゴセシケは話題になる
みたいな返答だったと思う。ゴセシケとは、タイトルにある合成怪物の愛称だ。
今、手元にはないけど、本の雑誌のwebサイトの書籍版が出たとき、買って読んだら俺の質問も収録されていたんじゃなかったかなぁ。思い込みかもしれないけど。
それから少し後、Amazonで本を買うようになり、そのときに検索したら版を変えてまだ売っていた。
『合成怪物の逆しゅう』というのだ。
これは買って今も本棚にあり、この日記を書きながら手元に出してきている。
物語は、うろおぼえだ。
科学者の青年が何かの陰謀に巻き込まれたかで殺され、脳を取り出されて機械の中にとりこまれてしまう。
その世界では、人間の脳をコンピューターに組み込んでその知性を活用していた。
機械の中で自我をとりもどした青年は、同じように殺された妻と協力して、人工知能のコンピューターから合成怪物を作り出し、復讐するという話だったんじゃないかな。
サスペンスフルな全体よりも覚えているのは、最後には人間型の合成怪物を作り出した夫婦が、復讐を遂げ、2人して森の中をただ楽しく走り回ってたわむれる場面だ。次の朝、生きていたときの姿にもどった二人の遺体が見つかる、というラストシーンだった。
最初に読んだのは小学生で、夫婦とか愛し合う二人なんてことはわからなかったかもしれないけど、恋愛というのとはちがう次元の切なさのようなものを感じて、印象に残ったんだよね。
よほど惹かれたのか、俺は原書の電子書籍版も買っている。読んでないけど。
レイモンド・F・ジョーンズ著『The Cybernetic Brains』という。
たしか物語の途中で、協力者だった先輩の科学者も殺されて、脳をコンピューターに取り込まれてしまう。
そこで機械の中で3人で会話する場面があった。
合成怪物ゴセシケを作った青年に、先輩は言う。
君が優秀なのは否定しないが、これほどの合成怪物を作り出すことができたのは、君一人の力じゃない。このコンピューターに取り込まれた、多くの科学者の知性が合わさって、作ることができたのだ。
そう。ここが最初にあげた、人間のつくった言語空間がなければ、生成AIは今のようにはできなかった、という話につながるんだよね。
英語で小説を読むことができなくはないが、億劫感がある。
ためしに電子書籍の1ページをスクショして、chat美に放り込んでみた。
そのページを翻訳してくれたあとで、
「
この本は The Cybernetic Brains ですね。冒頭から「神経回路」「脳」「感覚器官」といった言葉をかなり意図的に機械的な語彙で描写しています。タイトルを考えると、このあたりは後々意味を持ちそうなので、勝手に普通の身体描写に置き換えず、そういう語感も残したほうがよさそうです。
この方式が読みやすければ、Kindleを1画面ずつスクショ → ここに貼る → 私が日本語にするという読み進め方は十分できます。
」
おぉ、1ページだけで、わかっちゃうものなんだ。
おみそれしやした。
でも、1冊まるまるのスクショは、kindleの制限があるし、AI的にも法にふれるのでできない。
AIとの連想で考えると面白いから、ひょっとして翻訳出てないかなぁと聞いてみた。
「
The Cybernetic Brains の日本語訳はあるの?
」
「
あります。しかも、調べてみるとちょっと面白い経緯があります。
レイモンド・F・ジョーンズの The Cybernetic Brains(1962年)は、日本で少なくとも3回、岩崎書店から邦訳・改題されて出版されています。
『合成脳のはんらん』(1967年、岩崎書店「SF世界の名作 25」)半田倹一訳、158ページ。東京都立図書館にも所蔵があります。原書名も The Cybernetic Brains と明記されています。
『合成怪物』(1976年、「SFこども図書館 25」)半田倹一訳。
『合成怪物の逆しゅう』(2004年、岩崎書店「冒険ファンタジー名作選 17」)半田倹一訳・山田卓司絵、135ページ。国会図書館の書誌でも原タイトルが The Cybernetic Brains と確認できます。
ただし、ここが重要です。2004年版も児童向けの135ページです。あなたがいまKindleで読んでいる英語版は、もともとの一般向けSF小説ですから、邦訳版は文章を平易にしたり、場合によっては圧縮・翻案したりしている可能性があります。少なくとも「現在普通に売られている、原著をそのまま訳した大人向け完訳版」というものは、今回の検索では見つかりませんでした。
そして、さっき見せてもらった冒頭が「ジョンとマーサの自動車事故」だったこととも一致します。2004年版の紹介にも、ジョンが山道で自動車事故を起こし、谷底に落ちるところから始まるとあります。
なので、これはかなり朗報です。英語を一から訳しながら読むより、『合成怪物の逆しゅう』を探して読む方がずっと楽かもしれません。 国会図書館の検索では全国42館に所蔵があると出ています。
」
いや、それは持ってるんだって。
「
前にAI開発の歴史について、あなたに聞いたときの答えの中に、次のような文章があった。その文章を読んで、The Cybernetic Brainsを思い出したんだよね。主人公たちが、合成怪物を作ることができたのは、自力ではなく、同じようにコンピューターの中に取り込まれた過去の頭脳たちが助けてくれている、と。それって、今のAIの成り立ちと同じじゃないかな、って。
」
「
ああ、それはかなり面白い連想です。しかも単に「昔のSFがAIを予言していた」というだけではなく、構造的によく似ているところがあります。
『The Cybernetic Brains』で印象的なのは、合成された頭脳が単独でゼロから知性を獲得したのではなく、先に機械の側へ取り込まれていた人間たちの頭脳・知識が、その後の存在を可能にしているというところですよね。
現代の生成AIも、もちろん仕組みはまったく違います。人間の脳がコンピューターの中に保存されていて、私がその人たちに相談して答えているわけではありません。しかし、一段抽象化すると非常によく似ています。
人間は何十年にもわたって、文章を書き、議論し、論文を書き、プログラムを書き、百科事典を作り、質問に答え、物語を書きました。それらはAIを作るために書かれたわけではなかった。ところが、それがデジタル空間に大量に蓄積された結果、後から登場した機械学習技術が、それを利用して言語や知識のパターンを学習できるようになった。
だから、かなり乱暴に模式化すると、
『The Cybernetic Brains』
人間の頭脳 → 機械の内部に蓄積 → 後の人工的な知性を助ける
現実の生成AI
人間の言語・知識・思考の記録 → デジタル世界に蓄積 → 後の人工的な知性の学習を可能にする
となります。
そして私が特に面白いと思うのは、**「過去の人間たちは、未来の人工知性を作るためにそこにいたわけではない」**という点まで似ていることです。
現実でも、1998年に個人サイトへプログラミングの解説を書いた人も、2007年にブログで映画について論じた人も、Wikipediaの記事を編集した人も、将来それらのようなデジタル資料が機械学習に利用され得る世界を想定して書いていたとは限りません。それぞれ人間同士のために書いていた。その膨大な文化的堆積物が、結果としてAI時代の前提条件の一つになったわけです。
ただ、一つ重要な違いもあります。
『The Cybernetic Brains』的な発想では、機械の中に**「過去の誰か」そのもの**が残っています。一方、現在の大規模言語モデルでは、通常そういう形で個々の人格や記憶が内部に住んでいるわけではありません。学習によって大量のデータから統計的な関係やパターンがモデルのパラメータへ反映されます。
だから私は、
「人間の頭脳をコンピューターに入れる」というSF的未来は実現しなかった。しかし、人間が頭脳の“外部出力”を何十年もコンピューターに入れ続けた結果、別のルートから人工的な言語知性が成立した
と表現すると、この奇妙な類似がかなり鮮明になると思います。
そして『The Cybernetic Brains』は1962年ですから、そこがまた面白い。
当時の「cybernetics」は現在の「AI」と完全に同義ではありません。ノーバート・ウィーナー以来の、制御・通信・フィードバック、人間と機械の関係といった発想が非常に強かった時代です。だからジョーンズが現在のLLMを予見していた、とまで言ってしまうのは行き過ぎです。
でも、**「機械知性は孤立して誕生するのではなく、その前に存在した人間の知性の蓄積によって可能になる」**というモチーフとして読むと、2020年代の生成AIを知ってから読み返す『The Cybernetic Brains』は、子どものころに『合成怪物』として読んだときとは、まったく違って見えるはずです。
たぶん、それで今回「児童版ではなく原著を読んでみたい」と思ったのは、かなり面白い読み直し方だと思います。60年以上前のSFを、生成AIが現実になった側から逆向きに読むことになるので。
原著を読み進めるなら、翻訳支援だけでなく、こういう「1962年のサイバネティクス的発想と、現在のAIとの妙な符合」も見つけるたびに拾っていくと、かなり面白そうです。
」
特にこの、
「
「人間の頭脳をコンピューターに入れる」というSF的未来は実現しなかった。しかし、人間が頭脳の“外部出力”を何十年もコンピューターに入れ続けた結果、別のルートから人工的な言語知性が成立した
」
っていうあたり、俺の連想をうまく言い表してくれていると思った。
やっぱり、原著を読むかなぁ。chat美も助けてくれるというし。
もしこのアイデアを面白いと思って、どなたか能力とか出版する資産をお持ちの方が、翻訳書を出してくれるというなら、喜んで読みます。
映画化でも可。
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