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2019年10月26日11:32

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このサイトに嵌まってますPart0041


 本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生891日目、「極東戦域核戦争」開戦845日目、「人民の天皇論」宣撫開始180日目(怒)。〔再掲〕日本法制通史概論その11。続いて前回の11日後に書いたのが「法の君主論」第2弾「日本文明創生編」。〔2017年12月18日掲載〕


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テレビを見れば。。。。part0202


 さて、取り急ぎ「対抗プロパ」の構築を急ごう。前々回掲げた日本建国後1000年分の外交史に一部補足したチャートは以下のとおり。

 
1、南九州の一部族が大和地方に海路移住する。(神武建国、紀元前60年頃?)
             ↓
2、北九州と韓半島南部を支配するナ国の首長がチャイナの漢帝国に「朝貢」し「奴国王」に任じられる(奴国王朝貢、57年)
             ↓
3、大和の首長・帥升(孝安天皇?)が漢帝国に遣使し「倭の主権」を主張するも追い返される(倭面土国王遣使、107年)
             ↓
4、大和の首長が出雲国を制圧し日本列島をほほ掌握する(倭国大乱終結、200年前後)
             ↓
5、大和の首長(崇神天皇)が日本全体の祭祀王「すめらみこと」に即位する(倭王国成立、229年?)
             ↓
6、列島統一後の韓半島政策遂行のため偽装君主「卑弥呼」をたて魏王朝に遣使する。(「卑弥呼」の遣使、238年)
             ↓
7、あまりに酷い魏王朝の「内政干渉」にこりごして魏王朝と断交する。(対魏断交、266年)
             ↓
8、満州族・高句麗王国が楽浪郡(現在の平壌)へ侵攻。韓半島をめぐる日満対立始まる。(楽浪陥落、312年)
             ↓
9、倭軍北進し馬韓諸都市を糾合して百済王国を建国する。(近肖古王即位、347年)
             ↓
10、日韓連合軍(百済王国軍)が平壌へ侵攻、故国原王を討ち取る大勝利を収める。(平壌の戦い、371年)
             ↓
11、故国原王の息子・好太王が漢城(現在のソウル)に侵攻。(好太王戦争始まる、391年)
             ↓
12、好太王戦争での劣勢に外交攻勢をかける為、倭王・讃(仁徳天皇)が南朝に遣使する。(倭の五王の遣使、413年)
             ↓
13、外交攻勢の甲斐なく漢城(現在のソウル)が陥落。熊津(現・忠清南道公州市)に遷都する。(百済南遷、475年)
             ↓
14、役立たずの対南朝外交を停止する。(対南朝断交、513年)
             ↓
15、親チャイナ派の筑紫君(旧・奴国王)を制圧して、九州を直轄領に組み込む。(筑紫君磐井の乱、528年)
             ↓
16、大伴金村が任那・日本府を自己解体。韓半島からの撤退を開始する。(任那・日本府の滅亡、540年)
             ↓
17、北朝系諸部族の内部抗争により高句麗が満州に侵攻。(チャイナ・高句麗戦争始まる、598年)
             ↓
18、北朝系隋帝国に遣使、対チャイナ対等外交を試みる。(遣隋使の派遣、600年)
             ↓
19、対外国号・君主号をチャイナ王朝・皇帝と対等の「日本」「天皇」に変更する。(日本帝国成立、607年)
             ↓
20、新羅王国の日唐「両属」を認め、韓半島から撤退する。(新羅王国成立、668年)
             ↓
21、「官定国史」を制定し「欠史八代」の歴史を封印して国史を「神話」とつなげる。(日本書紀編纂、710年)
             ↓
22、満州族・高句麗王国の亡命政権・渤海王国の服属を認め「修交」する。(渤海王国服属、720年)
             ↓
23、新羅王国が日本帝国との「修交協定」を無視を続けたため国交を断絶する。(対新羅断交、780年)
             ↓
24、小中華思想に狂った新羅人が海賊となって日本各地を襲撃する。(羅寇始まる、811年)
             ↓
25、「馬鹿女」真聖女王が即位し新羅王国が空中分解する。(後三国時代始まる、887年)
             ↓
26、菅原道真の建議によりチャイナ・唐王朝と断交、「絶界政策(鎖国)」始まる。(遣唐使の廃止、894年)
             ↓
27、南下した渤海王国が後百済を滅ぼし高麗王国を建国、対日断交する。(高麗建国、936年)


日本の皇室はこの外交史と共にわが国・わが文明を発展させてきた。一般に日本の「古代史」が曖昧模糊としてわかり辛いのは、一に「共産党勢力」と「在日韓国・朝鮮人勢力」による徹頭徹尾の「反日プロパガンダ」と「反日サボタージュ」のせいであり、現状はほんとーーーに、慙愧に耐えない(怒)。だーーーれも、「真実」に挑もうとしねーーーでやんの(怒)。だから、「法制通史概論」を書こうと思った。なのに去年の2月からとまったまんまだもんな(-_-;)。政府が「領土の切り売り」である「対露交渉」を始めた事に心底驚いて「北方領土史」書くの優先してそのまんまだもんな(ToT)。いけんいけん愚痴ってる場合ではなかった。話を元に戻そう。日本の「古代史」がわかりずらい理由はもうひとつあって


皇室自身が「官定国史」によって「封印」したことなんだ。(チャート21)


以前も書いたが、もう「封印」は解かれるべきだと俺は「確信」している。「共産党勢力」と「在日韓国・朝鮮人勢力」はこれに「便乗」して徹頭徹尾の「反日プロパガンダ」と「反日サボタージュ」を撒き散らしてきた(怒)。神話に基づく「神聖君主」であることを「否定」する必要はもちろんもうとうない。だが


その「本質」は「法の君主(立憲君主)」であることを「闡明」にする


必要が絶対的にある。それこそ「反日勢力」同様「徹頭徹尾」ね(黒笑)。これがわかる人があまりにも少なすぎる(ToT)。大体、これ、俺の主張じゃなくて「明治大帝」がお定めになった「くにのおきて」ではないか(激怒)!それに何の不満があるんだよ(怒)。それでは各チャートにつき解説する。つか、誤解を恐れず縮めちまえ(笑)!


� 崑舅孫顱弖�国ターン(紀元前60年頃?〜紀元後107年)
             ↓
南九州(日向)の海洋民・海人族の一部族が大和地方に海路移住し「大和国」を建国する。以後「大和国」は太平洋岸の「航路」を押さえ、鉄器と稲作を普及させることにより東日本太平洋岸一帯を押さえ大発展する。(チャート1、神武建国、紀元前60年頃?)
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�◆嶇漸�国」建国ターン(107年〜229年?)
             ↓
北九州と韓半島南部を支配するナ国の首長がチャイナの漢帝国に「朝貢」し「奴国王」に任じられる「大売国」をしでかす(チャート2、奴国王朝貢、57年) 。大和国の首長・帥升(孝安天皇?)は漢帝国の「列島介入」を防ぐためとりいぞぎ漢帝国に遣使し「倭の主権」を主張するも追い返される(チャート3、倭面土国王遣使、107年) 。やむなく、後に「倭国大乱」と呼ばれることとなる統一戦争を開戦する。戦争は100年ほど続き、「大和国」と「奴国王」をはじめとする「北九州諸国」との同盟が、日本海沿岸と韓半島東部の「航路」を抑えていた海人族の国・出雲国を制圧して200年前後に終結。大和軍改め「官軍」が北九州に進駐し総督「イタケル」を置く(チャート4、倭国大乱終結)。体制を整えた大和の首長(崇神天皇)は統一戦争の戦死者・被災者すべてを慰霊し、「平和」が再建されたことを示すため日本全体の神聖君主・祭祀王「すめらみこと」に即位する(チャート5、倭王国成立、229年?)
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             ↓
��「日本帝国」建国ターンその1、日本外交始まるの巻き(229年?〜312年)。
             ↓
列島統一後の韓半島政策遂行のため偽装君主「卑弥呼」をたて魏王朝に遣使する。(チャート6、「卑弥呼」の遣使、238年) 。楽浪郡から張政を始めとする「糞・チャイニーズ」がやってきて「奴国王」と組んで、「酷い内政干渉」をはじめる。それにこりごりして再び偽装君主「台与」を立て張政を始めとする「糞・チャイニーズ」を国外に追い出し魏王朝と断交する。(チャート7、対魏断交、266年) 。
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�ぁ崙�本帝国」建国ターンその2、半島戦争始まるの巻き(312年〜391年)。
             ↓
300年にオリジナル・チャイナ文明に止めを刺した大内戦「八王の乱」が開幕。悶絶するような「阿呆な内紛」がチャイナ大陸を「民族大移動」の大動乱に巻き込み、首都洛陽がフン族の攻撃を受けて陥落。結果、「防衛的なチャイナ軍」が首都奪還のため楽浪郡(現在の平壌)から撤退。軍事的空白をぬって戦闘民族・満州族が南下し、楽浪郡(現在の平壌)を併合する(チャート8、楽浪陥落、312年)。韓半島南部をすでに「属領」としていた倭王国は満州族に撤退を求めるも、拒否され対抗措置として北進し馬韓諸都市を糾合して百済王国を建国し(チャート9、近肖古王即位、347年)、平壌へ侵攻、故国原王を討ち取る大勝利を収める(チャート10、平壌の戦い、371年) 。


ここは少し、改めて解説しておく必要があるだろう。しておかないとこの後の展開がチンプンカンプンになってしまうからな。百済王国を建国したのは間違いなく当時「倭王国」と名乗っていた「すめらみこと」率いる日本国だ。これが「伝説」の「神宮皇后の三韓征伐」の真相。「応神天皇」が武神「八幡様」と崇められるのは371年の平壌の戦いに大勝利したことに由来する。さーーてーーとーーー、ここで少し日本の「先建国史」にもどろう。「三韓征伐」の「三韓」の内、百済王国は日本国が建国した。残り、二つは


日本「人」が建国したが、日本「国」が建国したのではない


という「事実」を思い出そう。新羅は大和朝廷(日本国)に敗北した「旧・出雲王国」の「属領」で移民してきたチャイニーズ「金氏」に乗っ取られた。そして、任那は大和朝廷の「同盟者」である「奴国」の「属領」だったのだ。はじめ大和朝廷(日本国)は「古き盟約」に基づき、すべてを「護持」すべく北進し、戦闘民族・満州族と任那の間に百済王国を建国して南下をあきらめない満州族と開戦し緒戦を大勝利で飾った。だが、戦闘民族が国王殺られて黙ってるわけないでしょ(怒)。当然、「殺るか、殺られるか」の大戦争が勃発しちまったわけだ(ToT)。


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�ァ崙�本帝国」建国ターンその3、好太王戦争始まるの巻き(391年〜413年)。
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親父を殺られた満州族・高句麗王国国王の好太王は文字道理恨み骨髄で当然のようにリベンジ・マッチを挑んで攻め込んできた(チャート11、好太王戦争始まる、391年) 。かろうじて漢城(現在のソウル)の守城に成功するが、楽浪郡(現在の平壌)を奪取され、あげくに新羅が裏切って高句麗軍を引き込み、危うく海上導線(SLOC)切断の危機に陥るが内地から緊急動員(防人)した兵力を渡海させタッチの差で逆転勝ちする。その後は一進一退の攻防が20年も延々と続き、内地は疲弊する。
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�ァ崙�本帝国」建国ターンその4、戦時外交始まるの巻き(413年〜528年)。
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ここで倭王・讃(仁徳天皇)が動いた。オリジナル・チャイナ文明を継承する南朝に遣使して、停戦仲介を頼んだのだ。わが国としては「内政干渉」を招きかねない正に「苦渋の決断」だった。竈の煙を見て民の苦難をさとり、課役を免除した仁徳天皇の「聖帝伝説」はこの苦衷を表している(チャート12、倭の五王の遣使、413年)。しかし、半世紀にわたる攻防戦は満州族に凱歌があがり漢城(現在のソウル)が陥落。百済は熊津(現・忠清南道公州市)に遷都する(チャート13、百済南遷、475年)。すったもんだの議論の末、倭王国は役立たずの対南朝外交を停止する(対南朝断交、513年)。


ここも少し解説しておこう。ここで、大和朝廷(日本国)は大きな決断をする。それは「帝国(エンパイアー)」創設を停止して「国民国家(ネイション・ステイト)」を建設するという実に大きな、「方針転換」だった。倭王国時代の日本は


「王国」という名の多民族混成の「帝国」だった。


関門海峡から南東北地方・会津までの日本列島中央部を大和朝廷(日本国)が「直轄支配」し、会津以北樺太までのの日本列島北部と東南韓国(新羅)を「属領」として「間接支配」し、北九州と南韓国(任那)を支配する「奴国(筑紫君)」と中部韓国(百済王国)を「同盟者」として「共同歩調」をとる「紛れもない帝国」だったのだ。大和朝廷中央部がこれを決断したのは「対南朝断交」のときで6世紀はじめと推定していいと思う。そして、この「概定方針」は徹底的に伏せられた。ある意味し方がないことだった。議論すれば切の無い混乱が訪れただろう(-_-;)。そして日本国はこれ以後、


「帝国」という名の「王国(国民国家、ネイション・ステイト)」を目指す事となった


わけだ。この「概定方針」の「封印」は実に多くの「悲劇」を生み出す「元凶」ともなり、現在の日本古代史解読の「一大障害」ともなっているのだが、あの時代、あの状況ではほかに方法が無かった。そしてそれは「北九州」で始まった。


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�Α崙�本帝国」建国ターンその5、半島撤退政策始まるの巻き(528年〜598年)。
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まず、「役立たず」の同盟者・筑紫君(旧・奴国王)が制圧され、北九州が直轄領に組み込まれた(チャート15、筑紫君磐井の乱、528年)。これで南韓国(任那)も大和朝廷(日本国)の「属領」に自動的に編入されたので遠慮なく分割・割譲できるようになった。そこで欽明天皇は大伴金村に命じて百済王国(一部新羅)へ「属領」を割譲し任那・日本府を自己解体した(任那・日本府の滅亡、540年)。
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�Α崙�本帝国」建国ターンその6、対チャイナ対等外交始まるの巻き(598年〜607年)。
             ↓
そして、ここで日本に最初の「神風」が吹く(笑)。589年に隋王朝が南朝を攻め滅ぼし、北方系遊牧民を王と頂くセカンド・チャイナ文明が成立したのだ。ここで、「役立たず」の対南朝戦時外交が思わぬところで効いて来た。日本と半島をめぐって対立していた満州族・高句麗王国は間抜けにも南朝と対立していた北朝に遣使し朝貢していた。満州族は北方系遊牧民とは縁戚関係にあり、チャイナ大陸を制した北朝系鮮卑族・隋王朝と満州の支配権をめぐって「内ゲバ」を始めたてくれたわけだ(チャート17、チャイナ・高句麗戦争始まる、598年)。ラッキー。ここで日本側は対チャイナ対等外交を試みる(チャート18、遣隋使の派遣、600年)。「日出ところの天子、日没するところの天子にこんばんわ」ってわけ(笑)。日本は滅んだ南朝に朝貢したんであって、それを滅ぼした北朝系鮮卑族・隋王朝とは「対等」だという論理は「危険」だが「すじ」は通っている。同時に対外国号・君主号をチャイナ王朝・皇帝と対等の「日本」「天皇」に変更する(日本帝国成立、607年)。


再度、解説しよう。対外完全独立国「日本帝国」は成立した。そして、それは「「帝国」という名の「王国(国民国家、ネイション・ステイト)」」を目指すものであることも解説した。この一種独特の「成立過程」が日本の「皇室伝統」と「国体」を規定した。そして、われらが父祖はこれに従って他にどこにも存在しない独自文明「日本文明」を創設していくこととなったわけだ。


             ↓
             ↓
�А崙�本文明」創設ターンその1、帰化政策始まるの巻き(607年〜720年)。
             ↓
ここで、恐れていた事が起こる。日本国内が「帝国派」と「王国(国民国家、ネイション・ステイト)派」に割れたのだ。これは日本内部の「武臣集団」、半島の「属国・同盟国」、そして対チャイナ外交と連動して「皇室内部」を巻き込む「紛争」へと発展するが、あまりにも「複雑」すぎて、いずれ書くがここでは割愛する(-_-;)。「王国(国民国家、ネイション・ステイト)派」は「概定方針」に従い半島からの撤退を急いだ(チャート20、新羅王国成立、668年)。そして、続々と半島から「倭族(日系半島人)」が帰国した。ついでに、混血を主体としたコリアンやチャイニーズもかなり流入してきた。これらの人々まとめて「帰化人」と呼ぶ。「王国派」の聖徳太子が説く「和を持って尊しとなす」の真意は「内地人」・「帰化人」を問わず、「日本帝国・日本文明」の創設に参加せよとの必死の呼びかけだった。教育勅語の「天壌無窮の皇運を扶翼すべし(永遠に続くわが国建国の事業に参加せよの意味)」と完全に「同意」。そして、この経緯を国民(主として識字できる上流層)に宣告するために書かれたのが、日本書紀をはじめとする「官定国史」だったわけだ(チャート21、日本書紀編纂、710年)。そう考えると日本書紀が漢語(和風チャイナ語)で書かれ、600年(10干支)ほど建国が先延ばしにされ、欠史八代が「封印」されたのかがきれいに説明できる。帰化政策は「内ゲバ」に負け、満州の山奥に逃げ帰ったわれらが宿敵、満州族・高句麗王国の亡命政権・渤海王国の服属を認め「修交」することによって最終的に終了した(チャート21、渤海王国服属、720年)。
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             ↓
�─崙�本文明」創設ターンその2、絶界(鎖国)政策始まるの巻き(720年〜936年)。
             ↓
そして、ここで長い間日本の「国是」であった「絶界(鎖国)政策」が始まるわけだ。「官定国史」も似非歴史「日本史」も捻れまくってやがる(怒)。「トゥールス国史」を誰も望まないのか?鎖国は日本帝国との「修交協定」を無視を続けた新羅王国との国交を断絶によって始まった(チャート23、対新羅断交、780年)。そしたら「逆恨み」して日本各地を襲撃しやんの(チャート24、羅寇始まる、811年)。ほんとーーに「アジア主義(小中華思想)」は始末に追えねえよ。日本国内の「帝国派」と微妙に共鳴・連動してるから余計始末が悪い(怒)。こんな馬鹿やって国が持つわけなく、朴謹恵そっくりの「馬鹿女」真聖女王が即位し新羅王国は空中分解するわけだ(黒笑)(チャート25、後三国時代始まる、887年)。ほぼ同時に菅原道真公の建議によりチャイナと断交(チャート26遣唐使の廃止、894年)。半島を満州族・渤海王国に引き渡し、渤海王国改め高麗王国と友好的中立国として修交して絶界(鎖国)政策は完成した(高麗建国、936年)。


さてと、ようやく終わった。日本外交前半1000年史解説。現在、絶界(鎖国)時代の日本外交中盤900年史と開国を模索し続けた近世200年史を取り急ぎ執筆中。可能な限りはやくアップしたい。��「日本文明」展開ターンその1、サムライ勃興するの巻き(936年〜1192年)。はまた次回語ろう。


PS、「言外の売国奴」の皆様へ(怒)。あなたがたの言語感覚は異常だ(激怒)!「和を持って尊しとなす」と「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」が「同意」な事ですら理解しようとしない(怒)。なぜ「上皇職」・「皇嗣職」を許容するのか?バリバリ「不敬」ではないか(激怒)!「上皇職」・「皇嗣職」は当然、早急に「仙洞職」・「東宮職」に正常化されるべきだ。なぜ、天皇陛下のお世話をするものが「天皇職」ではなく「侍従職」、皇太子殿下のお世話をするものが「皇太子職」ではなく「東宮職」と呼ばれるのか考えた事が無いのか?


「身位」と「職」を「峻別」するためだ。


あなた方に比べれば「敵」の極左勢力の方がよっぽとマシな言語感覚してるよ(怒)。やつらは遠慮なくそれを逆用・悪用しているがね(黒笑)。極左勢力の「ニュースピーク」、「ダブルスピーク」の危険性になぜこれほど安閑としていられるのかまったく理解できない<(T^T)>。「上皇職」・「皇嗣職」のトップはいずれ必ず、上皇「陛下」・皇嗣「殿下」が直接指名される形で間接的に「身位」と「職」が「摩り替えら」れていくだろう(ToT)。これに同意・許容する人間を「言外の売国奴」よんで何が悪い(怒)!俺に味方はおらんのか(ToT)?くっされ(激怒)!



おまけにみくしー検索かけてみました。


「皇嗣職」

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とりあえず、今の所、「法の君主論」とはこれ↑のことだと思ってくれ。ここでのキーワード「先建国期半島進出」「神武建国」「倭国大乱(≒統一戦争)」「酷い内政干渉」「韓国(百済王国)建国」「王国名帝国」と「帝国名王国」「対中対等外交失敗」そして「半島放棄」と「絶界(鎖国)政策」みんなには「初耳」の話ばかりだと思う(-_-;)。一部は建国期に皇室御自らが、大部分が歴史学会に全面展開中の「共産党プロパガンテイスト集団(中核は俺の天敵「歴史学研究会」(怒))」が「隠蔽」した「国史空白期」の正体だ。「日本法制通史概論」第2弾で約束したとおり欠史八代の「封印をといて」みせたぜ(ドヤ顔・笑)。だがここからが実は大変(-_-;)。「霞がかった神聖君主像」の変わりに「実態」を伴う「歴史的君主像」をどんなことがあろうとも「明示」しなければならない(-_-#)。「桓武封建」に始まる「��「日本文明」展開ターンその1、サムライ勃興するの巻き(936年〜1192年)」はもちっとまってくれ。みんなが思ってるよりコレずーーーーーーーと大変な作業だから(-_-;)。「その11」はデーター量の関係から今日はここまで。まだまだ続きます。その話はまた次回語ろう。



おまけにみくしー検索かけてみました。

「王国」

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「帝国」

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