オープニングシーンから目を奪われる。
芝居小屋の舞台、演目は忠臣蔵で上野介が討たれるクライマックス。
芝居がはねてどやどやと小屋から人が溢れ出る、その真ん中を
分けて歩く(みなが避けるので)派手で強面な無法者。
その真ん前を赤い振袖の妙齢の娘が横切り、無法者にちらと目線を投げる。
‥画面を見ているこちらはまだ芝居が続いているような錯覚に陥る。
火よけ地の広場で娘の帯がくるくるとほどかれると、舞台上の早変わりのように
仇討ち白装束の美しい若武者が出現、「父の仇、尋常に勝負いたせ」!
自分はけっこう前にこの映画の原作を読んだのだが、
つまらなかった。
仕方ない、いくら評判のいい本でも感想は人それぞれ。
話の作りとしては悪くないのだが、若武者が敵討ちを成し遂げるまでの間に、
関わった(世話した)人間が代わる代わる状況を語る、
そのときついでにその人間が芝居小屋に流れ着くまでの経緯も語られる。
それがなんだか余計な気がしてねぇ。
一種の謎解きミステリーには、あんまりたくさんの枝葉末節は不要と思う。
これが藤沢周平の江戸人の生活を描くシリーズならわかるけどね。
映画では個人の裏話はほんのちょっとほのめかされるだけ。
物語を引っ張るのはあだ討ちの1年半後に「討たれた男の供養をしたい」と
芝居小屋を訪ねてきた美濃遠山藩浪人、加瀬総一郎。
あだ討ちを果たした伊納菊之助の許嫁の兄、という触れ込みで、
討たれた男の首のゆくえを知りたがり、菊之助に関わった人間に聞き回る。
‥と書いていくと全部書いてしまいそうなのでここらへんでやめておく。
この物語は芝居の連続だ。
芝居小屋のシーンも多いが、そもそものあだ討ちも実は壮大な芝居だったし、
あだ討ちの原因となった「菊之助の父が殺された」事件も芝居の一部だったし、
総一郎の身分や江戸に出てきた事情もすべて「芝居のセリフ」つまり嘘である。
うさんくさい総一郎の相手をする芝居小屋連中は奈落で次の場面を打ち合わせ、
総一郎は相手のセリフの隙をついて聞きたいことを少しずつ聞き出していく。
この流れが非常にわかりやすい。
ミステリーと考えるなら小説より映画のほうが特上である。
小説原作の映画では「どの部分を削りどこを付け足すか」で出来具合が変わる。
この映画は原作のまだるっこしさをすぱっと切り捨て、
わかりやすい形で少しだけ残して観客に推理の楽しみを残し、
「もともとあった大問題」の解決も状況で読み取らせる。
上手な映画だ。
あの小説は自分に合わない、と思ってどこかに本をほったらかしてあるが、
ちょっと探してまた読もうか、と思っている。
映画のあとで読めば、登場人物の衣装や仕草、二八蕎麦や柳川鍋のにおい、
たくさんの人間が行き交う芝居小屋の狭い廊下のむっとした熱気まで
文章から浮き上がってくるかもしれない。
追記;
この映画にくっついて「黒牢城」の予告編があってね。
これの原作は大好きで何度も読んで弟に読ませたくて送ったあとで
また読みたくなってもう一冊買ったくらいだが、
予告編の「土牢(地下牢)」の中で黒田官兵衛がきちんとあぐらかいて座ってた。
原作では「横になっても足が伸ばせないくらい」の細長い横穴で、
座ることもできないほど天井も低い。
そこに幽閉された官兵衛は「腹は膨れ足は曲がり目ばかりぎらぎら」になっていく。
映画予告編のようにきちんとあぐらをかけるほどの広さがあったら
あの小説の陰惨さは半分以下になっただろうな、と思う。
ただ、文字なら「腹は膨れ足は曲がり目ばかりぎらぎら」と書けても
灯もない土牢内で這った姿勢しか取れない官兵衛の思惑を映画で描くのは難しい。
村重と官兵衛のふたり芝居がこの物語の芯であれば、
広めの土牢内できちんとあぐらをかいた官兵衛と村重を描くのも必要と思う。
映画とはそういうものだ。
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