日曜日で模型の話を書いたので、もうひとつ、本の話も書いておこう。
養老孟司・内田樹『日本人が立ち返る場所』を読んだ。
面白かった。
内田樹と養老孟司、どちらも好きな作家さんでさ。
二人の対談は『逆立ち日本論』以来だという。
あちらもずいぶん昔で、あんまり覚えていないけど、読んでいる。
額縁、感情教育、サイコパス、言葉の身体性、あれこれ刺激になることが多かった。
養老氏も、もう88になるというけど、話は面白い。
養老氏の話というと、全面的に拝聴したくなるんだけど、ときどき「ん?」と思うこともある。それは、イマドキ言われていることと、ぜんぜん違っていたり、まっこうから対立したり、アサッテの方向だったりするからだ。
えー?それはどうだろう、と思うこともないじゃないんだけど、それでも引き込まれて読めるのは、本書でも話題になっていたヴォイスがある、ということだろう。
養老氏と内田氏が話す中で、学生さんの文章などを読むと、どこかで借りてきた文章で、自分の中から出てきた言葉ではない、というくだりがあった。
内田氏は大学の教員として、そこをどう動かすかに腐心したという。
言葉が定型ばかりで自分のヴォイスがない、とか考えるところ。俺はもはや子供ではなく、50代のおっさんだけど、ヴォイスはもてているだろうか。
養老氏にしても、内田氏にしても、決して誰かが言ったことを言おうとはしていない。
ひょっとしたら、自分でも何を言おうとしているのかわからないかもしれない。
これって、みんなそう思うよね、という前提をとっぱらって、もやもやした自分の中の思いを言葉にする。
それはときとして、強い批判にさらされるだろう。
そこを、いやちがうとおっしゃるかもしれないが、私が思うのはこういうことでね、と言葉をつらねる。
そういうあたりが、面白いんだろうな。
俺自身、こうして誰の得にもならない文章を書いてはいるんだけど、少しでもヴォイスを持つということに、近づけているならいいな、なんて思わなくもないけど、そう思っているから書いているというのもまた、ちがうんだよね。
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