中国の歴史では周が800年ぐらい続きますが、紀元前221年、秦の始皇帝という天才が現れて中国を統一します。ローマが勃興したころです。始皇帝というのは、ダレイオス1世に並ぶ、すさまじい天才で、世界初の中央集権国家をつくりました。
まず皇帝という新しい称号をつくります。それから郡県制をつくります。簡単にいえば、中央から官僚を派遣し、全土を治めるということです。ダレイオス1世は、サトラップ(知事)に、地方の有力者を任命しましたが、始皇帝は違いました。
中央から知事を送ったのです。なぜそれができたかというと、漢字と紙が存在したからです。伝言ゲームと違って、書いたことがそのまま地方に伝達できます。紙は蔡倫が2世紀に発明したのではないか、と思われる方もいるかもしれませんが、始皇帝のころから紙の原型がありました。竹簡や木簡もありました。
つまり、書写材料に、漢字という文字がそろっているので、文書行政ができたということが中国のすごさです。始皇帝は、文字を統一し、度量衡も統一します。車軌を統一したのもすごいことで、車の幅をそろえることで、泥道に鉄道を引いたような轍ができ、物資の流通が楽になるのです。貨幣の統一は二世皇帝の時代です。
始皇帝に始まる、中央集権国家のグランドデザインは今も生きていると思います。中国とほぼ同じ広さの米国本土には時差が4つありますが、中国は北京時間1つです。中央集権です。それがなぜできるかといえば始皇帝の時代に「中国のような広い国は、優秀な官僚が文書行政で治めないといけない」という国家のグランドデザインが出来たからでしょう。
大国の統治技術は、西方のダレイオス1世に始まり、東方の始皇帝が完成させたと考えたらわかりやすいと思います。漢の武帝が、始皇帝をおとしめた。始皇帝が死んだ後、項羽と劉邦が戦い、劉邦が勝ち、漢帝国が生まれます。漢の最盛期は、7代武帝の時代といわれています。劉邦の時代、中央ユーラシアには匈奴という遊牧民の大帝国がありました。
劉邦は匈奴に降参します。「お金を払いますし、反抗しませんから、 許してください」と。こうして漢は事実上、匈奴に臣従したのです。しかし、武帝のころになると国庫も豊かになり、匈奴に戦争を仕掛けます。そのときに衛青、霍去病といった将軍が活躍し、匈奴との主従関係が一時期逆転したのです。
武帝の時代には、『史記』などの歴史記録がつくられました。武帝は漢では一番、有力な皇帝です。その武帝が、誰を意識するかというと、秦の始皇帝でした。自分の前の有力者です。秦皇漢武という言葉が残っています。しかし、始皇帝の頃の歴史書は残っていません。
武帝が『史記』を書かせたのはつまり、自分をよく見せ、始皇帝をおとしめるということでした。だから、「始皇帝のお母さんは、宰相・呂不韋の愛人だ」とか、「始皇帝は、呂不韋の子どもだ」「皇帝と結婚したとき、お母さんのお腹にはもう愛人の子どもがいた」などと、始皇帝をおとしめたわけです。
武帝が自分を持ち上げようとした反動で、始皇帝の評価は後世、低くなってしまいました。この辺りの出来事は漫画やアニメ・映画などで大ヒットしている「キングダム」を見ていただけるとよくわかると思います。
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