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2023年09月28日05:02

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日中平和に情熱を燃やした木村武雄

木村武雄は田中政権時代から交渉が開始されていた日中平和友好条約の締結を成し遂げたいと考えていました。ところが、「反覇権」条項をめぐって日中間の交渉は暗礁に乗り上げていた。日中共同声明には「アジア・太平洋地域で覇権を求めるべきではない」という条項が含まれていたため、中国の条約案には「反覇権」条項が入っていた。

しかし、日本は「反覇権」が特定の国を対象としたものであると受け取られことを避けたかった。このため、交渉は停滞した。昭和五十一 (一九七六)年は日中双方にとって木村にとっても多難な年だった。中国では、周恩来、毛沢東の死去や四人組の逮捕などの混乱状態が続いていた。

ところが、昭和五十二(一九七七)年七月、前年に失脚した��小平が復活すると局面が変わった。木村はすでに七十五歳になっていたが、なおも日中平和友好条約締結に情熱を燃やすのだ。同年九月、木村は浜野清吾が率いる日中友好議員連盟の訪中団として北京を訪れた。

この時、��小平は「福田首相に期待している。いろいろなこと、問題もあろうが、この問題に限っては、一秒間ですむことだ。一秒とは、「調印」の二字である」と語った(田才徳彦「日中平和友好条約交渉」『埼玉女子短期大学研究紀要』平成二十八年九月)。これ以降、条約締結への動きが活発になってくる。

結局、「反覇権」条項については、「この条約は第三国との関係に影響を及ぼさない」との一項を盛り込むことで決着がつき、昭和五十三(一九七八)年八月、園田直外相と中国の黄華外相が条約に署名した。条約は十月に批准され、同月二十二日には��小平副総理が来日した。中国の国家指導者として初めての訪問だ。

��小平は、日中平和友好条約相互批准書交換式に参加し、新日鐵や日産自動社など、日本の代表的な企業の工場を視察した。この訪日の際、��小平は田中邸を訪問している。��小平が「改革開放」を開始するのは、その二ヵ月後のことだ。

原則を確認の上、「日中友好二十一世紀委員会」の設立を決定したのは、その三日前のことである。木村の最後の願いが叶ったように見える。木村の死去を受けて、自民党山形県連会長(当時)の近藤鉄雄は、「木村先生は自民党の主流にありながらも、常に野党的な反骨、批判精神を持ち続け、時流の中に決して埋没することのない政治家だった」と語った。

十二月十一日に米沢市の市立体育館で行われた告別式では、天皇、皇后両陛下、中曽根総理、インドネシアのスハルト大統領から贈られた生花などが飾られ、故人ゆかりの約三千五百人が出席した。中曽根総理から寄せられた「国家のためかけがえのない偉大な政治家を失い、哀悼にたえない」との弔辞が代読された。木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂・坪内隆彦 (著)参照。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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