昨日は、
旧湯津上村(現大田原市)のなす風土記の丘湯津上資料館に行って来ました。
そこで標記の「日本考古学発祥の地」と題する企画展をやっていて、
期限が今日までだったので、若干熱海の疲れがありましたが、出掛けた次第です。
現在の館長は、僕の知り合いなので、そんな事もありました。
日本の考古学では1877年(明治10年)の、
エドワード・モースの大森貝塚の発掘が最初とされていますが、
江戸時代に栃木県の湯津上村で史跡整備を伴う学術的な発掘が行われていました。
書き出すとかなりの長文になりますのでザックリと書きますが、
当時湯津上村辺りは水戸藩領でした。
そこで見付かった「那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)」を
近くに住む里正である大金重貞が「那須記」に著して、
水戸光圀に献上した事で光圀が知る事となり、調査を佐々介三郎宗淳に命じます。
因みにこの佐々介三郎が、「水戸黄門漫遊記」の佐々木助三郎のモデルです。
更に、国造碑に記された那須直葦提、意志麻呂父子の墓と推定して、
上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備も佐々宗淳に命じています。
1692年(元禄5年)に行われた発掘調査は、発見された鏡などの遺物の絵を描き、
改めて木箱に入れて埋め戻したとされています。
資料の作成など、現代の学術調査と同じように行った事から、
日本の考古学の発祥の地と称する事になったようです。
調査の終わった古墳は埋め戻し、松の木を植えて、古墳の維持管理を命じました。
近隣住民は、古墳の保護を続けて来ました。
現代でも、暦の霜降の日に松の木に菰を巻き、
啓蟄の日に菰を外して、虫が松の木につくのを防いでいます。
写真をご覧頂くと、松の木の菰が分かると思います。
こうして近隣住民に守られて来た結果、
考古学の権威である森浩一は「日本で一番美しい古墳」と
その著書で書いているとの事です。
因みに、古墳が築造されたのは5世紀と考えられています、
国造碑は、西暦700年に建立されたものですから、直接的な関係はありません。
上侍塚古墳も下侍塚古墳も前方後方墳と言う特殊な形態で作られています。
那須国造碑については下記を
http://tennnennkozimitearu.seesaa.net/article/a36754516.html
下侍塚古墳については下記を
http://tennnennkozimitearu.seesaa.net/article/a65457259.html
それぞれご参照下さい。
現在、改めて両古墳の学術調査を県が行っています。
まだ、光圀が埋め戻しを命じた副葬品は発見されていません。
元の古墳の墳丘と江戸期の発掘の際に盛った土があるようで、
その辺の苦労もあるとの事でした。
現在は金属探知機で表面から調べている外、
周溝の調査などを行っているようでいるようです。
昨日行った時には。幸い館長がいましたので、
彼の案内で色々な資料を見る事が出来ました。
その後、某国立大学の教授が来たので、僕は失礼して
両古墳の写真を撮って来ました。
また資料館に戻って、若い女性の学芸員としばらく話して来ました。
企画展を催したのも図録を執筆したのも彼女だったとの事なので、
その労をねぎらって来ました。
最近は、企画展の期限が迫った事や、
県の発掘の事などがあり、県内外から多くの考古学者が来るので、
大変だけど勉強になっていると話していました。
若い人が一生懸命に取り組んでいるのは良いですね。
激励して来ました。
昨日の写真をアップしましたので、宜しければご覧下さい。
http://photozou.jp/photo/album/2882708
【今日の一句】
入ってる ゲテ物ばかり 闇鍋に
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