幕府を批判した医者・蘭学者と言えば、高野長英でしょう。江戸時代後期の医師で蘭学者です。シーボルトの鳴滝塾で蘭学を学んでいます。渡辺崋山らと交わり、幕府の外交政策を批判したために、牢屋に入れられました。
のちに脱獄して逃げ回り、ついに見つかって自殺をしました。高野長英は、陸奥国水沢領(今の岩手県水沢市)の医師の子にうまれ、17歳で江戸へ出て、医学と蘭学を学びました。シーボルトが日本に来たことを知ると、長英は、父の反対をおし切って長崎へ行きました。
そこで鳴滝塾に入りました。長英は塾で抜群の成績だったといいます。その後、シーボルト事件がおきたため、長英は長崎を離れ、やがて江戸へ戻ります。江戸で長英は、町医者となります。
そしてまもなく、渡辺崋山らが集まって開いていた尚歯会という研究会に参加します。1837年、アメリカの商船モリソン号が、日本人の漂流民をともなって浦賀(神奈川)にきました。幕府は、この船を異国船打払令によって、追い払いました。
尚歯会の集まりでこれを知った長英は幕府の政策を批判して、翌年「戊戌夢物語」という本にまとめました。しかしこれは危険な思想とされ、長英は他の尚歯会の会員とともに幕府にとらえられました(蛮社の獄)。
長英は、牢屋に入れられましたが、牢屋が火事になって、牢から抜け出しました。その後、顏を薬で焼いて人相を変え、逃げ回りましたが、ついに江戸で見つかり、自殺しました。ちなみに渡辺崋山の代表作品が愛知県の豊川稲荷の近くのお食事何処に飾られていました。
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