学校であだ名を禁止、生徒同士が「さん付け」で呼ぶという流れが有るらしい?
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イジメの一環として、不本意なあだ名を付けるという事は確かに有るでしょう。
多少は私もされた記憶が有ります。
しかし、それはイジメという構図が有ってこそ、その手段の一つとしての不本意なあだ名であり、あだ名→イジメという順番は、有っても少数ではないでしょうか。
イジメ対策としてのあだ名禁止というのは、小手先と言うか本末転倒と言うか…
イジメやケンカをさせない為に、親密な付き合いをさせないという方向に進んでいくのでしょうか。
些か飛躍しますが、戦争が人類から無くならないように、社会からイジメをに無くす事は不可能と思っています。
「自分の優位性に酔いしれたいが為に、他者を落としこむ」、あるいは「他者を落としこんで、自分の優位性に酔う」、どちらの順番であっても、そうした欲求は人の本能の一部なのではないでしょうか。
そして人に対して好悪の感情を持つ事自体も致し方有りません。
そして、理性や思慮がまだ未熟な子供が、悪感情を持った相手に対して、排除してやろうとかイジメてしまおうと思う事も自然な事だと思います。
その「思う」までは自然な事で仕方有りませんが、それを「イジメという行為にしてはいけない」という理性が希薄であれば、あだ名の有無にかかわらず、イジメに繋がるのではないでしょうか。
不本意なあだ名を付けなかったからといって、イジメを無くす事に繋がるるとはとても思えません。
そんな事より、「人が嫌がる事をしない」「された人の気持ちを考える」などの道徳教育をしっかり行うべきと思います。
「道徳」と言うと、「右傾化」だの「戦前の軍国教育」だと言い出す人もいますが、そんな事ではなく、社会で生きていく為の極々当たり前の事です。
今の学校には道徳の時間というのが有るのか無いのか不明ですが、私が小学校低学年の頃は、時間割表に「道徳」という時間が週イチ程度で載っておりました。
と言っても、その扱いは非常に軽く、ホームルーム的なのが殆どで、「道徳」の時間にそうした教育が行われたのは、さほど無かったように記憶しています。
それでも前述の「人が嫌がる事をするな」「された人の気持ちを考えろ」は、よく言われました。
お前はそれがしっかり出来ているのか!と言われると、なかなかそうも言いきれませんが、そうした事は考えていかねば!という想いは常に持っています。
幼少の頃より英語やPCに触れさせるのも重要です。
しかし集団・社会の中でどう身を処していくのか教えて行く方が、よほど重要ではないでしょうか。
「そんな役立たない時間より、試験に役立つ授業をするように」などの圧力が、どこからか有るのでしょうか?
家庭でそれをしっかりと教えられるというならそれで良いですが、所謂モンスターペアレンツがのさばる状況では期待出来ません。
このモンスターペアレンツという連中が、どんどん日本人を軟弱にしていく元凶の第一と思っていますが…
自分の子供は特別という気持ちは勿論分かりますが、他人も特別扱いしてくれることが当然というのは不合理な話です。
皆がそう思って、どの子供も「特別」になってしまうと、結局「特別」しかいなくなってしまい、ならば「特別」って何だ?という事になってしまいます。
「個人有ってこその集団」と「集団有ってこその個人」は並立すべきであり、前者だけで成り立つものではありません。
前者だけ主張して後者を無視するなら、「責任は果たさないのに権利ばかり主張する」と同じではないでしょうか。
モンスターの事はそれくらいにしておいて…
話を戻せば、イジメ防止目的のあだ名禁止の方針はイジメ問題に対して真剣に向き合わない逃避であり、先にあげたモンスターペアレンツのような問題は有るにしろ、「教育」に対して真剣さが足りなさ過ぎる印象です。
事なかれ主義というか「臭いものに蓋」というか…
子供達はまだまだ未熟なのですから、多少の問題が起きるのは仕方無いでしょう。
衝突も口論も全てダメでは、所謂「忖度」が得意な子供が増えていくのではないでしょうか。
文科省なのか教育委員会なのか分かりませんが、そんな方針では、現場の先生も大変だと思います。
こうした事を考える度、昭和の頃を懐かしく思う私がおそらく古いでしょう。
今から考えれば、昭和の時代もとんでもない事はたくさん有りました。
それでも昭和40年に生まれるのと、令和2年に生まれるのを今から選べるとすれば、私が選ぶのは確実に前者です。
人を育てていく、延いては社会を作っていくのは教育であり経験だと思いますが、それを奪われていく子供達も正直気の毒だと思っています。
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