加藤清正が火の国・肥後に入り、熊本城を築城します。熊本城は当時の防衛力としては最高の城でした。「はね出し」と呼ばれる。石垣積みの工法は、当時の城も及ばなかった。それほど堅牢な要塞を築かせたのは、薩摩の島津を制圧するための戦略防衛の地であったからです。この戦略は、豊臣秀吉から徳川家康にそのまま受け継がれました。
この要塞が本領を発揮したのは、明治時代に起きた西南戦争の時です。熊本城を築城した加藤清正の後を受けて、細川忠利が藩主となりました。細川藩は人吉の相良藩2万石と天草の天領を除けば、肥後のほぼ全域を支配しました。
熊本54万石、実際は74万石ともいわれています。熊本では、加藤清正はいまでも神様のごとく幕われ、「清正公さん」と二重の敬称で呼ばれています。甲斐の武田信玄も山梨では尊敬されていますが、信玄公と呼ぶだけで二重の敬称はしません。
「薩摩の大提灯、肥後のクワガタカブト」という表現がありますが、これは鹿児島はリーダーの周囲に集まって押し立てていくのに対し、熊本ではだれも対象になりたがるという意味です。きっかけは猫でした。気病にかかった猫が次々と発作を起こして死亡しました。
そのうち漁民たちが同じような気病にかかり、1956年末までに64人の患者が発生、21人が死亡しました。高濃度の水銀汚染が大量に発生し、湾は死の海と化しました。熊本県の献血率は、20年間トップでした。
熊本県には、とにかく強気を装い、豪快に見せたがりますが、実際は保守的で、非文化的で、非都会的です。要するには洗練されていない田舎都市なのだと言います。それでいて福岡・博多に対しては、強烈なほどの対抗意識が強く、九州の代表は熊本という気位が高いです。
県外流出率も少なく、県民は最も住みよいところだと自負しています。したがってよそ者が入り込むには、人脈などの力を頼る必要があるというのです。ちなみに熊本地震で壊れ落ちてきた熊本城の石垣から見つかった観音様、壊れなければ決して見る事の出来なかった400年前のものだったのです。
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