mixiユーザー(id:2396826)

2020年07月18日13:47

80 view

最近、考えたこと。Part0159

 本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生1157日目、「極東戦域核戦争」開戦1110日目、「人民の天皇論」宣撫開始445日目、「日本戦争」開戦145日目(怒)!〔緊急連載〕大陸共匪(チャイナ共産党)「解体・真書」番外編その11、「チャイナ春秋戦国史」の簡単なおさらいその10。一昨日は「四夷思想」について簡単に触れた、今日は「夏・殷・周」三朝の基本的「相関関係」について「まとめ」ておく。はっきり書く、


「大夏(華)朝廷(バザール秩序)」≒「周王国」


であると(-_-;)。ちなみにこれは日本と違い「王統」を意味しない。「殷王国」の建国は原住チャイニーズの「独立戦争」であり、独立後も「西方移住者(キャン(羌)族)」のチャイナ移住は減少しつつ延々と続いたのさ。形を変えつつ1500年間続いた「殷VS周(≒夏)」の対立とは、


原住チャイニーズ(主として東夷・南蛮)VS西方移住者(主として西戎・北狄)


の「対立」に他ならない(-_-;)。そして紀元前202年「南蛮人(呉系楚人)」が「殷系列」の「諸臣」に推されて最終的に勝利し、西方移住者(主として西戎・北狄)の「根拠地及び流入路(旧秦王国・現峡西省、甘粛省、寧夏省)」を「制圧」しファースト・チャイナ帝国(大漢帝国)が建国されることによって「終結」した。


この「視点」抜きで「古代チャイナ史」を解釈するのは絶対に無理(激怒)!


親父もよくわからん「どん底庶民」劉邦が「天下」をとった理由は、本人語るように蕭何・曹参を始めとする「名臣」に恵まれたからでもあるが、根本的には1500年間も断続的に延々と続いた


「殷・周(≒夏)の対立」解いてくれるなら「誰でも良かった」からなんだよね(-_-;)。


「秦王家」や六国の「君主」担ぐとまたぞろ「対立」ぶり返すでしょ?「秦王国系家臣・庶民」も「六国系家臣・庶民」も本当に「無意味」な対立に心底ウンザリしてたってわけ、ある意味本当に「天命」だわ(笑)。この対立を最終的に「解消」したのが「文景の治」であり「呉楚七国の乱」なわけだが、それについては後述する。少し先行き過ぎた、話を元に戻す。紀元前1700年頃、殷后・天乙こと子履は「大夏(華)朝廷(バザール秩序)」を継ぐのではなく


文字道理「力ずくで打倒」して「殷王国」を建国した。


チャイナ史最初の「放伐」だが、これが、うーーーーーーーむ(-_-;)。これ、「凄まじ」過ぎないか?ストレートに「皆殺し」と「奴隷化」の連発(-_-#)。「青銅器時代」はどこでもそうだが「鉄器時代」と違って「可耕地」の拡大ができないんで、


自分の子供「生かす」ために他人の子供「殺さ」にゃあならない心底「嫌な時代」(ToT)。


日本だってそうだぜ、「弥生時代」の西日本各地でその「悲劇」は無数におきた(怒)。日本の場合、「鉄器」と「青銅器」はほぼ同時に「伝来」したから大和朝廷(日本国皇室)の「鉄器増産」政策開始と同時にこの「陰惨な悲劇」はすぐ「暫減」していき、紀元後2世紀末に「終焉」した。それが、チャイナでは紀元前1800年頃〜同500年頃まで実に1300年間続いちまったんだよね(ToT)。ここ「大事」、みんな良く聞いて、


ここが「国史(日本史)」と「チャイナ史」の決定的違い。


そして、「国風文化(日本文化)」と「唐様文化(チャイナ文化)」のほぼ絶望的なほどの「異差」を生み出している「根源」なの(-_-;)。チャイニーズはこの長い長い文字通り世界一長い「青銅器時代」を通じて独特の「ブロンズ(青銅)偏愛文化」とでもいうべき「文化」を生み出したのよ、今日は「文化史」やる気無いけど、ほんと「独特の文化」を生み出したの。そして、その「文化」において


「皆殺し」と「奴隷化」は世界中の人々が理解できないほど「敷居が低い」


のさ(-_-;)。「独特な事」に「自国民」・「他国民」の「区別」一切なしにね(黒笑)。毛沢東の「(自国民の)半分が核で焼かれても、どおって事は無い(フランス・ポンピドー大統領に対する発言)」という「真性・ちょーーー鬼畜発言」はこの「文化」に由来し、ハッタリではなくて「大マジ」なの(-_-#)。毛沢東は心底からそう「信」じていた(怒)。言っとくが


これ、チャイニーズがみんな「皆殺し」と「奴隷化」が大好きという話ではないよ?


「チャイナ大陸」は独特の「ブロンズ(青銅)偏愛文化」によって4000年間「皆殺し」と「奴隷化」を容認する言うなれば民族別「デス・マッチ」の会場にされてしまったという「文化的悲劇」の事を俺は言っているのさ(-_-#)。そして、それは疑いようも無く「現在進行形」(怒)、


その「文化的超克」こそ現代チャイニーズに「天」が科したる「最大の課題」


なんだと思う(-_-;)。言っとくが俺はこの「文化的超克」に関して自分の「祖国」の政治的軍事的文化的「防衛」にかかわらない限り一切言及しない。これはあくまでチャイニーズの問題なんであって日本人の俺には「無関係」、こっちはこっちで「超克」つか「復旧」しなければならない「文化的課題」が背骨がへし折れそうなほどてんこ盛り(-_-#)。チャイナの面倒までみてる余裕は一切ない。つーわけで、孫君・地蛋君・周庭ちゃん・アスカさんがんばってねo(^-^)o(笑)。話を元に戻す。殷后・天乙こと子履がキャン(羌)族のチャイナ植民地「大夏(華)朝廷」を「放伐」し力ずくで叩き潰した。ここで強調しておきたいのは


「殷王朝」とは「邑」という都市国家の「軍事同盟」


である事。殷王(后)が直轄地以外で徴収できるのは「税金」ではなく「ソルジャー(兵隊)」である事。このチャイナ的社会構造(氏族的都市国家の連合体)は基本的に紀元3世紀初頭の後漢末に荘園地「邨(村)」が勃興するまでほぼ2000年間続き、今現在も「部外婚制」はじめチャイナ文化に決定的「影響」を与えている事。西欧で言えば「デロス同盟」や「ラテン同盟」みたいなもんだな(笑)。そして紀元前1100頃までに


南と東に「大発展」したこと、ただし、酷く「血生臭く」ね(黒笑)。


「夏」は今で言えば山西省南部と河南北部をあわせたほぼ「1省」ていどの領域を支配し「十字交易路」をその中心(河南省鄭州市)にて「管理(朝貢)」した。「殷」は中心(河南省鄭州市)に都城を築き、「十字交易路」にそって四方に「遠征軍」を派遣し「邑」を次々と「封建」した。南と東はバックグラントだったのでサクサク「拡大」したが、


北と西は「夏の残党」と血で血を洗う陰惨な「デス・マッチ」が続いた。


結果、600年間で今で言えば河南省・山東省・河北省南部・山西省南部・安徽省北部・湖北省北部・峡西省の一部と「4省」程度に領域を拡大した。おそらく「人口」は10倍以上になっただろう。


そ・し・て、「逆襲」がはじまるわけだ(黒笑)。


少し長くなったな、余計な解説多すぎた(-_-;)。「夏の残党」は「敗因」である「北方との同盟」を再建しつつ血みどろの防衛戦を闘いながら「機会」を伺っていた。「歴史学的情報戦」を着々と準備しながらね(-_-;)。その話はまた次回語ろう。


PS、殷王朝の「統治」を17世600年と書いたが、1世35年は無理ではないが少し長すぎ。殷滅亡は「漢書」の記述から紀元前1127年で確定しているので、「革命」を紀元前1600年にしたい欲求にかられるが、古代王家は「末子相続」が通例なので、とりあえずこのままにします。



おまけにみくしー検索かけてみました。


「殷」

新着日記検索結果一覧 (4件)
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年07月>
日 月 火 水 木 金 土
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031