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2019年03月22日13:21

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犠牲的献身は生の掟

スワミ・サッチダーナンダ「インテグラル・ヨーガ」より。

犠牲的献身は生の掟なのだ。だからわれわれは、その生を人類のために捧げ与えた人々をほめ讃え、あこがれるのである。なぜわれわれはイエス・キリストと十字架を崇拝するのか?
“犠牲的献身”がその十字架の意味だからだ。彼は自分自身を犠牲とした――。われわれはその本質を崇拝するのか? われわれが尊ぶのは一片の木塊ではなく、それが表現している犠牲的献身である。彼は人類のために自らの命そのものを与えた。あらゆる予言者や聖者、賢者たちが、神なる存在あるいは神そのものとして崇敬されるのは、そうした犠牲的献身のゆえである――。

これは聖者だけではなく、自然のすべて――木々も鳥も動物たちも、すべてが他のもののために生きている。なぜ、ろうそくは燃えて溶けていくのか? 光を与えるためである。なぜ香は燃えて灰になるのか? 香りを与えるためである。 なぜ樹木は伸びるのか? 果実と花を与えるためである・・・・。おおよそこの世界に、生物・無生物を問わず、自分だけのために生きているものなどあるだろうか? ない。ならば、自然のすべてが犠牲だというのに、ひとり人間だけが利己的な生を送ってよいものだろうか? われわれは、与え、与え、かつ与えるために、ここに在る。われわれに与えられて然るべきもの――それは、われわれが思い煩うまでもなく、与えられるべくして与えられるのだ。

そうは言っても、もちろん迷いは残るだろう。「犠牲的献身の人生を送るべきだというならば、わたしはどうやって食べていけばいいのだ? どうやって衣服を得、住むところを得たらいいのだ――?」。それらのものは、他者に奉仕するための自分自身の備えとして持てばよいのである。あなたには、また明日の朝も元気で他者への奉仕に出かけられるように、ゆっくり休むためのベッドが要る。他者に奉仕するための十分なエネルギーを得るためには、食べねばならない。そのように、何をするときでも、「私は他者に奉仕するために自分自身を整えているのだ」という思いでもってやる。瞑想するときでも、それは自分だけの平安のためではない。安らかな心で外に出て、十分奉仕できるように、するのだ。他でもないそのことを念じながら、瞑想をする。そうだ、そのときにはヨーガの瞑想さえもが無私の行為となる。そしてそれが、“神に対してさえ執着するなかれ”の意味なのだ――。このヴァイラーギャすなわち無執着だけが、あなたの全人生を喜びに満ちたものへと変えるに足るのである。


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