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2018年10月01日14:46

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最近、思ったこと。part0034



  〔緊急連載〕ロシア東欧史概論対露アウトライン・ダイジェストその10{かっ飛びつまみ食い編その8}。さてと、こっちも頑張ろうo(-_-)o。「人民の天皇論」宣撫開始まであと213日だ(怒)。原稿用紙で90枚以上書いているのに「書くべき事」の3割も書けてない<(T^T)>。時間がない(怒)、後で全文チャートするとして37以降のチャートは以下の通り


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37、トランスコーカサスへと帰還したバトゥ・カンはボルガ下流域の三角州(現アストラハン付近)と中流域の旧ブルガール王国(現カザン付近)を巡回し、東に兄オルダを西に弟ベルケを送り自領ジュチ・ウルスを固める。
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38、モンゴル本土ではグユクの母である監国(皇帝臨時代行)ドレゲネ皇后がクリルタイ(帝国会議)開催を策してバトゥ・カンに出席を繰り返し要請するが、グユクの即位とそれへの臣従を嫌って、要請を無視し続ける。
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39、痺れを切らしたグユクがバトゥ抜きでクリルタイ(帝国会議)を強行し第三代カーンへと即位する。
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40、グユクはバトゥへの威圧のためにモンゴル本土の兵50000騎を率いて自領の旧ナイマン王国領へと進駐する。
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41、それを伝え聞いたバトゥ・カンが30000騎を率いて旧ナイマン王国領に接する旧カルルク族領へと進駐する。
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42、両軍が接触する直前、グユク・カーンが急死する
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さてと、第三代グユク・カーンは死んだ。おそらく、「暗殺」で間違いないだろう。そして、これについての未検証の「仮説」を一つ提示しておきたい。俺的には確率は半々だと思う。つまり、


グユク・カーン暗殺の「実行犯」は「イスマーイール暗殺者教団(ニザール派)」ではないのか?


という「仮説」だ。その後、の執拗・徹底的なモンゴル帝国軍による「イスマーイール暗殺者教団(ニザール派)」の討伐・皆殺し的抹殺は「大カーン暗殺」の「隠蔽工作」つまり「口封じ」だと考えるとちょーどよく辻褄が合う(黒笑)。だっておかしいと思いません?一般には敵対勢力に暗殺者教団が雇われモンケ・カーン「暗殺」のために400人の「刺客」を帝都カラコルムに送り込んだからだと言われているし、おそらく、討伐作戦に従事した「遊牧騎士」たちはそう教えられ堅くそう信じていただろう。怒り心頭、文字どうり、「徹底的」だったからね(黒笑)。だか、そんなことで本当にモンゴル大帝国が


「基本国策」変更してまで50000騎の主力部隊を差し向けるだろうか?


後で語る、「フレグ・カンの征西」はジンギス・カーンの定めた「基本国策・通商路確保戦略」に反しており、その上、モンケ・カーンが新たに打ち出した「湿潤アジア制圧政策」にも反しているという「計画絶対」のモンゴル帝国にしては「奇妙・奇天烈」な遠征だった。しかも、その「主攻目標」がたかが、宗教団体に偽装した「殺し屋」家業の「地回りヤクザ」だったって「変」でしょ絶対(-_-;)。当然、「計画絶対」の原則に反した「フレグ・ウルス」の建国は西部モンゴル帝国に絶望的な「大混乱」をもたらすのだが、ま、話が先へ行き過ぎた。未検証の「仮説」の話は切り上げて話を元に戻す。


43、東進してきたバトゥ・カンは10000騎の兵を連れそのまま帝都カラコルムに到着する。
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44、バトゥ・カンは宗室首位の権限でカーン選出のクリルタイ(帝国会議)開催を帝国全土に布告。
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45、すったもんだの末、クリルタイ(帝国会議)はバトゥ主導でトゥルイ家の当主モンケを第4代カーンに選出。
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46、モンケ・カーンは即位同時に「通商路確保戦略」派オゴタイ・チャガタイ両家を大粛清し、対南宋制圧戦争を発動、その実行責任者として次弟・クビライを漢地大都督に任じ左翼・諸弟王国とその組下の兵力を預ける。
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さてと。1251年ついにモンゴル帝国にとっても、その後のすべての人々にも「運命の王」モンケ・カーンが登場したわけだ。初代ジンギス・カーンの定めた基本国策「通商路確保戦略」は基本的に放棄され「湿潤アジア」つまり南部チャイナ制圧作戦が発動された(-_-#)。


「運命の王」モンケ・カーンは自分が始めたこの「基本国策変更」の意味を実はよく理解していなかった。


おそらく、「大成功」に終わったオゴタイ・カーンの東西二大遠征を拡大的に「再生産」させるつもりだったのだろう。だが、それはトンデモナイ「勘違い」だった(-_-;)。オゴタイ・カーンの東西二大遠征は純粋に基本国策「通商路確保戦略」に従ったジンギス・カーンの「大征西」の遣り残しを完遂した「計画」どうりの作戦だった。だが、「運命の王」モンケ・カーンが発動した対南宋制圧作戦は「従前の計画」にはまったく無い「新しい計画・作戦」であり、しかも、ジンギス・カーンの定めた


モンゴル帝国の基本国策「通商路確保戦略」と真っ向から「対立」するものだった。


「顧客」片っ端から「ぶっ殺した」ら「強盗」にはなりえても「商売」にはならんでしょ(-_-#)。つまりそういうことさ(-_-;)。その上、モンゴル帝国に連戦連勝をもたらした基本戦略である接襄地域の遊牧民の「組織化」がまったくできなかった。当たり前だよ、農耕地域で遊牧民がいない地域なんだから。おかげでモンゴル帝国は建国以来「最大・最長」の「消耗戦」に巻き込まれていった。宿敵・金帝国を無力化するのに「2年」、壊滅させるのに「4年」しかからなかったのに、対南宋制圧作戦は最終的に28年間の「超長期戦」となり、莫大な「戦費」・「戦力」を消耗し、モンゴル帝国そのものを「変質」させていった。


つか、なんで俺モンゴル帝国側で「事」を論じてんだよ(-_-#)。


モンゴル帝国史はロシア側の「情報工作」特に「ユーラシア主義」の宣撫工作によく使われており、よく注意しないとすぐこれに引っかかってしまう。ま、判りやすく言えば。モンゴル帝国史は十分注意しないと


ジンギス・カーンの「生霊」に取り付かれちまうわけだ(笑)。


あまりにも「華麗なる戦略」と「勝利の連続」に幻惑されてついつい「モンゴル帝国側」で「事」を論じちまいそうになる(苦笑)。特に「前期モンゴル帝国史」だけやるとほぼ100パーセントそうだね。岡田 英弘、杉山正明、「首都移転を策する人気評論家S(笑)」こと堺屋太一なんかがこの典型だろう。だけど、「これ」実は


ハーフ・トゥールス語法を使った「ペテン」なの(-_-;)。


嘘だと思うなら「中期モンゴル帝国史」と「後期モンゴル帝国史」をやってみることだ。南宋壊滅以後の「中期モンゴル帝国史」後半からが見所。「モンゴル帝国」とはなんぞやという事が嫌でもよく判るようになるから(黒笑)。さてと、話を元に戻そう。


47、クビライが漢地大都督として金蓮川に赴任し侵攻軍を組織し始めるのと同時にモンケ・カーンは三弟・フレグに15000騎を与え西部のチャガタイ・オゴタイ両家の兵力を接収させ、「イスマーイール暗殺者教団(ニザール派)」壊滅を命じる。
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48、クビライ南伐軍が雲南・大理(タイ)王国に侵攻し、長江最上流部を制圧。
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49、フレグは5年かけて各地のチャガタイ・オゴタイ系諸勢力を大カーンの命令により接収し、サマルカンドに50000騎の大軍を集結させ、一挙に「イスマーイール暗殺者教団(ニザール派)」壊滅させる。
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50、南伐作戦の進展の遅さに痺れを切らしたモンケ・カーンがクビライを解任して親征する。
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51、フレグは一挙にバグダッドを制圧。アッバース朝を滅ぼし、シリアへと侵攻する。
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52、親征中のモンケ・カーンが敵中に突出してしまい四川省で攻城戦中に狙撃を受け戦死する。
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さて「運命の王」第4代モンケ・カーンは死んだ。ここで、モンゴル帝国は収拾不能の「大混乱」に陥り、事実上「分裂」することとなる。名目的には「帝国」は続くが実態的に「帝国」が「帝国」として機能したのはモンケ・カーンまでだ。この後を名目的に「継ぐ」事となるクビライとフレグは「ダヤン(大元)・ウルス」と「フレグ・ウルス」を建国することとなるが、両国とも100年持たずに「四部五列」に「空中分解」することとなる。ちなみに「通商路確保戦略」派は様々に形を変えながら現代でも続いている。その経緯についてはまた次回語ろう。


PS、モンゴル軍の兵力についてはできうる限り正確を期しているつもりだが、正直かなり「推定値」が入っている。例えばフレグ軍50000騎は壊滅した別働隊兵力が15000騎でフレグ・ウルス建国後のカンの直卒兵力が30000騎そしてジョチ・ウルスからの援兵10000騎との記載から逆算的に推定した。みんなも個々に計算してみてほしい。


おまけにみくしー検索かけてみました。

「ユーラシア主義」


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