本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生416日目、「極東戦域核戦争」開戦370日目、「人民の天皇論」宣撫開始まであと298日(怒)!つ・い・に300日切った(怒)。「法の君主論」を一挙に公表したいが3歩すんで5歩さがる「地獄道」から抜け出せず悪戦苦闘中(ToT)。後で並べなおすことを期して「順不同」に出来た順で公表する。最初は「百済復興戦争」について。しっかし、相も変わらず日本の歴史学者は「ゴキブリ野郎」だらけで碌な仕事しねえ(怒)。
とてつもない「サボタージュ」の連続で目も当てられない(-_-#)。
基本、「百済復興戦争」を論述するなら「日本書紀」と「三国史記」と「唐書」の記載を時系列的に並べなおして、各記載「地名」を現在の地図上の地名に「比定」していかなければならない。当たり前だろ(怒)。なのに、どいつもこいつもこれをやろうとしない。一言言っていい?
おまえら「学問」舐めてんのか(激怒)!
ここでも、突破口は渡部博士だった。はーーーーー、「基本作業」ぐらいチャンとやろうぜ(-_-;)。ここ一週間、「地獄巡り」しながら調べたおいらの試案は以下の通り。
660年 7月10日 大唐の蘇定方と新羅の金春秋が百済を夾み撃ちで侵攻。王城を囲む。(日本書紀)
同年 同月13日 王城陥落。(日本書紀)
同年 同月18日 熊津城に避難していた百済王と太子が軍を率いて降伏する。(三国史記・新羅本紀)
同年 同月18日 西部軍司令・鬼室福信は任存城で、余自進王子は熊津城で抗戦を続ける。(日本書紀)
同年 同月26日 任存城を新羅軍が攻撃するも大敗する。(三国史記・新羅本紀)
同年 9月 3日 唐の劉仁願が泗沘城に兵1万人で進駐する。(三国史記・新羅本紀)
同年 同月23日 百済復興軍が泗沘城を攻撃、20余城が呼応し百済復興戦争始まる。(三国史記・新羅本紀)
同年 10月23日 熊津城外の水関を新羅・漢連合軍が突破し、泗沘城へ侵攻。(三国史記・新羅本紀)
同年 同月30日 泗沘の南嶺の百済の柵を攻略す。(三国史記・新羅本紀)
同年 同月 鬼室福信、唐の俘一百余人を献上。豊璋を迎へて、国の主とすることを求む。豊璋及妻子と其の叔父忠勝等とを送る。(日本書紀)
同年 11月 1日 百済復興軍が泗沘城より撤退。(三国史記・新羅本紀)鬼室福信は任存城へ引き、新羅軍も糧食がつき撤退する。(三国史記・百済本紀)
661年 2月 百済復興軍が再び泗沘城を攻める。(三国史記・新羅本紀)
同年 3月 5日 州柔城を百済復興軍が奪取する。(三国史記・新羅本紀)
同年 同月12日 新羅・唐連合軍が州柔城奪還のために古沙城外に集結する。(三国史記・新羅本紀)
同年 4月19日 百済復興軍が州柔城外で金欽将軍率いる新羅・唐連合軍を大破する。(三国史記・新羅本紀)(三国史記・百済本紀)
同年 同月 鬼室福信が日本に扶余豊璋の帰国を願い出る。(日本書紀)
同年 6月 新羅の金春秋(武烈王)が死に、息子の金法敏(文武王)が即位する。(三国史記・新羅本紀)
同年 8月 前将軍阿曇比邏夫連・後将軍阿倍引田比邏夫臣とする百済救援軍を結成し、武器・兵糧を送る。(日本書紀)
同年 同月 百済復興軍が甕山城を攻略し、新羅軍の補給路を遮断する。(三国史記・新羅本紀)
同年 9月27日 甕山城を新羅軍が奪還。(三国史記・新羅本紀)
同年 同月 百済救援軍第一陣5000が狹井連檳榔、秦造田来津の指揮下に海を渡る。(日本書紀)
同年 10月29日 金法敏が唐から冊封を受ける名目で百済から兵を引く。(三国史記・新羅本紀)
662年 1月27日 鬼室福信に日本から矢十万隻はじめ軍需物資・軍資金・兵糧が送られる。(日本書紀)
同年 3月 百済の王に軍資金として布三百端を送る。高麗が救援を請う。軍将を遣して䟽留城に駐屯させる。(日本書紀)
同年 5月 百済救援軍第二陣、阿曇比邏夫連等が船師一百七十艘(兵力5000?)を率て渡海。扶余豊璋を百済国に送り王位につける。(日本書紀)
同年 6月(推定) 百済復興軍が熊津城奪回作戦を開始、唐将・劉仁願を囲む。(三国史記・新羅本紀)
同年 同月(推定) 鬼室福信が僧・道琛を誅殺しその軍を併合する。(三国史記・新羅本紀)
同年 7月 熊津城奪回作戦が失敗。(三国史記・百済本紀)
同年 8月 百済復興軍が儒城を攻撃し補給路を遮断しようとするも敗退する。(三国史記・新羅本紀)
同年 12月 扶余豊璋が田来津の諫言を聴かず州柔城を出て避城に都を移す。(日本書紀)
663年 1月 金城南郊に南山新城に作り、富山城を築く。(三国史記・新羅本紀)
同年 2月 新羅が百済南郊の居列城を攻略。北部でも攻勢にでて��安城が陥落。(三国史記・新羅本紀)(日本書紀)
同年 同月 扶余豊璋があわてて避城から州柔城に帰還する。(日本書紀)
同年 3月 上毛野君稚子・巨勢神前臣譯語・阿倍引田臣比邏夫の3将率いる百済救援軍本隊二万七千人が新羅に侵攻(日本書紀)。
同年 5月 1日 犬上君が兵事を高麗に告げてた帰り扶余豊璋と石城で出会う。扶余豊璋は福信の罪を語る。(日本書紀)
同年 6月 百済救援軍本隊が沙鼻城・岐奴江城を攻略し居列城への補給線を遮断する。(日本書紀)
同年 同月 扶余豊璋が鬼室福信を叛乱名目で拷問の上殺害する。(日本書紀)
同年 8月13日 鬼室福信殺害をチャンスと見た新羅の金法敏が部下に全面侵攻を命ずる。(日本書紀)
同年 同月17日 唐軍7000が白村江を封鎖、新羅軍は要衝・石城、加林城を避けそのまま州柔城を囲む。(日本書紀)(三国史記・新羅本紀)
同年 同月27日 百済救援軍第四陣1万が白村江に到着するも唐軍が封鎖しているため撤退する。(日本書紀)
同年 同月28日 扶余豊璋が情勢も考えず白村江突入を命じる。当然、待ち構えていた連合軍に包囲され大敗する。(日本書紀)
同年 同月 同日 扶余豊璋が責任回避のために高麗に逃亡する。(日本書紀)
同年 9月 7日 君主に逃亡された州柔城が連合軍に降伏。(日本書紀)
同年 同月 同日 百済復興軍・救援軍に「総撤退」命令が下る。枕服岐城にいた百済復興軍が牟弖城へ撤退。(日本書紀)
同年 同月11日 百済復興軍が牟弖城を出発。(日本書紀)
同年 同月13日 百済復興軍が弖礼城に到着。(日本書紀)
同年 同月24日 百済復興軍が弖礼城で救援軍と合流。(日本書紀)
同年 同月25日 百済復興軍・救援軍が全軍韓半島から撤退する。(日本書紀)
同年 同月 扶余忠勝と扶余忠志が軍を率いて降伏。遲受信のみが任存城に篭城する。(三国史記・新羅本紀)(三国史記・百済本紀)
同年 10月21日 唐・新羅連合軍が任存城を攻撃。(三国史記・新羅本紀)
同年 11月 4日 唐・新羅連合軍が任存城攻略をあきらめ撤退する。(三国史記・新羅本紀)
663年 3月 百済復興軍・残党が泗沘城を強襲。一時占拠するも敗退する。(三国史記・新羅本紀)
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677年 2月25日 唐、安東都護府を遼河流域に再建し扶余隆を熊津都督帯方郡王とし故国奪還を命じるが、扶余隆は高句麗にと留まり5年後に死去。王統が断たれ百済王国滅亡。(三国史記・百済本紀)
沙鼻城 (慶尚南道陜川郡東部近郊) 沙比城?慶尚北道尚州?
岐奴江城 (慶尚南道三嘉、慶尚南道陜川南郊) 三岐城
又居勿城 (全羅北道長水郡蟠岩面)
沙平城 (忠清南道唐津郡新平面)
石城 (忠清南道扶余の東南の石城里)
��安城 (忠清南道論山郡恩津) 安��城
居列城 (慶尚南道居昌郡居昌) 慶尚南道晋州市?
王城 (忠清南道扶余市) 泗沘城
加巴利浜 (全羅北道扶安付近の浜辺)
任射岐山 (忠清南道牙山南郊) 任存城
久麻怒利城(忠清南道公州市) 熊津城
䟽留城 (全羅北道???おそらく長功付近) 周留城?都々岐留山?
州柔城 (全羅北道扶安付近) 長功付近と推定するのは辻褄が合わない。
古沙比城 (全羅北道古阜) 古沙城、古沙夫里城
避城 (全羅北道金堤)
枕服岐城 (全羅南道長城付近)
牟弖城 (全羅南道羅州付近)
弖礼城 (全羅南道順天付近)
井沢元彦はじめとする「インチキ著述家」や、井上光貞はじめとする「いかさま学者」がとれだけ「国史」を歪めているかよくわかるだろう(黒笑)。彼らは決して「百済救援軍」の第1軍から第3軍までの話をしない。そして「局地戦」に敗退した第4軍のこと「だけ」を針棒大に「強調」する。あの記述読んで「?」とならなかったら頭のお鉢に「脳みそ」入ってないって言われてもしょうがないぜ(-_-#)。原典にはチャンと書いてあるんだよ。その原典も「解説」で井上たち「ゴキブリ学者」が歪めやがる(怒)。たとえば
復興百済の首都・州柔城は白江(錦江)河岸には存在しない。
なぜなら、最初の攻防戦の敵側拠点が古沙城だったからだ。三国史記・新羅本紀に明記されており、チャンと「比定」した地図を見ればすぐわかる。あげくに沙鼻城が慶尚北道尚州だってさ(笑)。忠清南道の最前線から100キロ近く奥のしかも内陸部になぜいきなり日本軍が攻め込める?馬鹿馬鹿しい。百済軍には「空挺部隊」でもいたのか(笑)?沙鼻城はおそらく慶尚南道陜川郡東部の「サン山」だ。南から居列城への洛東江を使った補給線を遮断するにはあそこが最適地。つまりこの時点までは
明白に「日本」側は「勝」っていたのだ。
ふーーーーーなのに、その直後、本国から「満州敗戦」方式の「謎の総撤退」命令が出ている。百済救援軍第四陣1万は唐水軍の南下防止を主任務とした「総撤退」の側面援護部隊であり、そう考えなければ「白村江」は決して理解できない(激怒)!いいかげんにしろよ(怒)。常識あればわかるだろ(-_-#)。それ以外に枕服岐城も牟弖城も弖礼城も任存城も沙鼻城も岐奴江城も加林城も石城も健在の上、主力部隊3万7000はじめ5万以上の無傷の兵力を展開し、現地住民の「協力」を確保していた
百済・日本連合軍が列島に後退する理由は一切存在しない(怒)。
「ある」と言う方は「お馬鹿」なおいらにその「理由」とやらを教えていただけないか(黒笑)。「白村江」で負けたからどうした(笑)。それ以前にも「負け」などいくらでもあった(怒)。撤退理由には決してならない。扶余豊璋が逃げた?扶余忠勝も扶余忠志も軍を率いて戦っていた。彼らのどちらかに「王位」に附いてくれるよう要請すればいいだけではないか。唐軍が怖い?ははは、大笑いだ(^〇^)。唐軍と百済で戦うのは「怖い」けど九州で戦うのは「平気」なの?文字どうり馬鹿げている(怒)!
大体、唐軍の「主敵」は一貫して高句麗(高麗)であり、日本にはいくらでも「外交」の余地があった。
任存城の故・鬼室福信将軍の部下なんて白村江の半年以上「後」に独力で首都を強襲し「奪回」している。さすが、福信将軍旗下の「勇士」たち。ハンバねーーわ(-_-;)。ただ、その後の記述がないところから直後に唐側に寝返った扶余隆の軍に撃破され、事実上、百済復興軍・残党は壊滅し組織的抵抗は終結した(ToT)。「・・・」の部分はその後の新羅による「陰惨」な「残党狩り」の話ばっかりで悲惨すぎて書く気がおきない(ToT)。繰り返す
「謎の総撤退」は史書に記載されていなくても「実在」する。
州柔城陥落から全軍撤退までわずか「18日」なのだ(-_-;)。事前に周到に準備していなければ100パーセント「不可能」なのは明白。いい加減に「記録論」と「存在論」をちゃんと区別してくれ(ToT)!では、なぜ、「謎の総撤退」命令が出たのかについては当時の国際情勢と国内の政治状況の分析を加味しながらまた次回語ろう。はーーー、ちかれた(ToT)。とほほ(ToT)。
PS、そ、言えば「売国奴お断り!」を名乗る「超・売国奴」のサイトにたどり着いてしまってゲンナリしたっけ(-_-;)。自国に「分裂」と「内戦」呼び込む言説繰り返す「愛国者」なんざいねーーーよ(-_-#)。「日本の古代史を考える」のに「記紀」を無視して外国文献「のみ」をで語る「愛国者」ってどんな話なんだよ(-_-;)。「極左」ってほんと「反語(ニュースピーク)」が好きだね。とほほ。
おまけにみくしー検索かけてみました。
「百済」
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