信長公が天下を夢見た安土城址の次は、天下分け目の戦が行われた関ヶ原へ行きました。
ここで言う「天下分け目の戦」とは、言わずと知れた1600年に行われた「関ヶ原の戦」、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の間の戦ですが、実はもっと昔にこの地で「天下分け目の戦い」が行われています。
それは672年の壬申の乱。
天智天皇(大化の改新で知られる中大兄皇子)の次の皇位を巡る争いから起きた、古代日本最大の内乱です。
天智天皇の子大友皇子=弘文天皇に、天智天皇の弟大海人皇子が起こした反乱というのが大雑把な構図です。
細かく言うとキリが無いのでいきなり結果を言いますが、大海人皇子が勝利し、即位して天武天皇となりました。
「関ヶ原の戦」に関連して、東北や九州で戦いが有ったように、壬申の乱も機内各地で戦いが有ったよう。
それでも、ここ関ヶ原に有る不破の関での戦は大きな意味が有ったのでしょう。
ついでに…と言うのもなんですが、関ヶ原から少し東、現在は大垣市になっている美濃国分寺近くでも大きな戦が有りました。
それが南北朝時代の1338年、奥州の霊山城から上洛を目指した陸奥守北畠顕家の南朝軍と、土岐頼遠らの北朝軍による青野原の戦です。
こちらも双方とも数万以上の兵の戦で(南朝軍は数十万とも…誇張だと思いますが)、南朝軍はこの戦に勝ったものの、これで疲弊してしまったのか、それまで破竹の勢いで勝ち進んできたのが、この後は伊勢国や大和国を転々とし、最後には和泉国で陸奥守も戦死してしまいます。
この一戦で勝負がついた訳ではない為、青野原の戦を天下分け目と呼ぶのはやや気が引けますが、当時の大勢力どうしの戦として、外す事は出来ません。
それにしても、西美濃の一角で、こう何度も何度も東西勢力の大きな戦となっているとは…
驚きです!
さて
関ヶ原。
お城のようにはっきりした物が有るのではなく、あくまでも古戦場ですから、観光としてはどうなのか?という思いが有りました。
しかし、行ってみると戦争の悲惨さを訴えるような場所(例えば原爆ドームのような)ではなく、正に「観光資源」という印象で、正直言って違和感が無きにしも非ず…というところでしょうか。
とは言え、それは原爆は悲惨だけど槍に刺され首をとられるのは悲惨でないといった意味ではなく、単に400年以上昔の事なので、体験として実感し難いという事でしょう。
偶に○○の末裔という方が登場しますが、多くの人は自分の先祖が1600年に何やっていたかなど知らないでしょうし、先祖とは一代遡れば必ず2人いる訳ですから、平均1世代25年として16世代前は65536人…
さほど意義有る計算ではないですが、これでは当時の人に対して、第二次大戦のような身内の体験と感じられないのも無理無いかもしれません。
ま、そういう事なら良いか。
私もレンタルサイクルを借りて、モデルコースを走ってみました。
先ずは細川忠興の陣跡
竹林中を登って行くと丸山狼煙場
決戦地
石田三成陣跡…
ここは駐車場が目の前のせいか、クルマで来ている人が多かったです。
こちらは島津義弘陣跡ですが、オリエンテーリングのポストも有りました。
更に開戦地
大谷吉継墓所
前面の山が松尾山、東軍に寝返り西軍崩壊のきっかけになった小早川秀秋の陣が有った場所です。
ただでさえ大軍の小早川なのに、更に小早川の寝返りに備えて配置されていた脇坂、赤座、朽木、小川らも小早川に同調し、やがて大谷吉継も自刃しました。
ここまでは全て東海道線の北側で、南側には壬申の乱の舞台となった不破の関跡も有りました。
それにしてもこの関ヶ原、ここの市街地は駅の主に南側で、戦跡は主に北側です。
日頃の利用を考えれば、駅に南口が有るのは頷けますが、観光を考えると、北口が無いのは如何なものか。
大河ドラマの影響でけっこう混んでいるのでは…と思っていましたが、意外に観光客が少ないよう。
一通り見回って、自転車を返却。
時間が有れば、青野原にも行ってみたかったですが、電車で移動しながら複数箇所の観光…というのは、意外に時間がかかるもの。
こちらは断念です。
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