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2016年06月23日01:53

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テレビを見れば。。。。part0084

 さてと、緊急連載「北方領土史」の第11弾。前回、「天保の大獄」で大弾圧を繰り返す水野忠邦を引き摺り下ろし政権に復帰した「実務派」阿部正弘老中は絶望的な状況下地政学的な包囲を解くために英露を分断すべく「開国」へと果敢に大きな一歩を踏み出し、着々と準備を進めていったってとこまでやった。今回はその続き。


 今回はわかり易く、「天保の大獄」からペリー来航までの阿部正弘老中を筆頭にした「実務派」政権が絶望的状況下でいかに「苦闘」していたのかを簡単にチャートして説明しよう。


1、「ネオ・バカ殿派」水野忠邦が「天保の大獄」の大弾圧を始める。(1839年)
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2、「英清戦争(別名・貿易戦争、俗称・アヘン戦争)」に清が大敗。日本国内に衝撃が走る。(1842年)
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3、「実務派」土井利位・阿部正弘両老中を中心として英露分断のための「開国」を決断、決起する。(1843年)
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4、「実務派」土井利位を「老中首座」として水野忠邦を追放、権力を奪取する。(1843年)
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5、「実務派」オランダ商館を通じて「開国を勧める国王親書」発給を要請。(1843年)
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6、オランダからの「開国を勧める国王親書」が到着。(1844年)
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7、「ネオ・バカ殿派」が「宮廷クーデター」で復権、水野忠邦が政権に復帰する。(1844年)
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8、「ネオ・バカ殿派」水野忠邦がオランダ国王からの「開国を勧める国王親書」を握り潰す。(1844年)
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9、激怒した「実務派」阿部正弘老中が「カウンター・クーデター」を実行。水野忠邦を再度追放する。(1845年)
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10、「実務派」阿部正弘老中が国防組織「海岸防禦御用掛(通称・海防掛)」を設置する。(1845年)

11、米捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し来航、クーパー船長を浦賀奉行歓待す。(1845年)
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12、「実務派」オランダ商館を通じて「開国を勧める国王親書」発給を再度要請するが拒否される(ToT)。(1846年)
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13、アメリカ東洋艦隊ジェームズ・ビドルが浦賀に来航。ぶん殴って追い返す。(1846年)
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14、オランダ商館長からの「開国を勧める勧告書」 を入手。(1847年)
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15、「実務派」阿部正弘老中首座「開国を勧めるオランダ商館長勧告書」をもって12代将軍徳川家慶に「開国」を上申。(1847年)
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16、「実務派」阿部正弘老中、公武合体論を諸大名に説き、徳川斉昭の子の慶喜を一橋家に入れ将軍後継者の一人とする。(1847年)
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17、「実務派」阿部正弘老中薩摩藩政に介入、島津斉彬を抜擢し火力増強のための火薬輸入ルートを確保する。(1848年)
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18、「実務派」諸藩に「火器演習の禁」を解き、鍋島直正・茂義に火器鋳造研究及び増産を依頼する。(1848年)
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19、「実務派」阿部正弘老中水戸藩政に介入、公武合体のためあえて「尊皇派」徳川斉昭を藩政に復帰させる。(1849年)
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20、米艦プレブル号、英艦マリナー号相次いで来航、「実務派」長崎奉行所に対外諜報を命じる。(1849年)
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21、「実務派」江川英龍に命じて伊豆韮山に火器鋳造のための反射炉を造営させる。(1850年)
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22、日本の疫病神「ネオ・バカ殿派」水野忠邦がよーーやくくたばる\(T^T)/\(T^T)/\(T^T)/。「ネオ・バカ殿派」内紛状態となる。(1851年)
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23、幕府諜報部隊、オランダ商館員よりマシュー・ガルブレイス・ペリーの来航と戦略を探知。(1852年)
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24、「実務派」阿部正弘老中、ペリーを使った「対米開国」を決断。三浦半島の防備を強化する。(1852年)
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25、「実務派」阿部正弘老中、長崎へのペリー艦隊来航を予測。火付盗賊改方出身の精鋭・水野忠徳を長崎奉行に送り込む。(1853年)
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26、予測が外れてペリー艦隊が浦賀に来航。(1853年)
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27、このクソ忙しいのにオットセイ将軍Jr(徳川家慶)が暑気当たりでポックリ死んでしまう(ToT)。(1853年)
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28、勘弁してくれ(ToT)。ペリー艦隊にあわてて海上封鎖をかけて補給を断ち、翌年来るように追い返す。(1853年)
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29、お家騒動を避けるため大急ぎで段取りを組んで廃人世嗣(徳川家定)を征夷大将軍に就ける(ToT)。(1853年)
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30、「尊皇派」で「攘夷主義者」の徳川斉昭を「海防掛参与」としてあえて閣内に引き込む。(1853年)
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31、「実務派」諸藩に「大船建造の禁」を解き、自らも造船所を中心とした海軍基地「横須賀鎮守府」を設置する。(1853年)
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32、場合によっては本土決戦をする覚悟で、東京湾に沿岸要塞(お台場)を建設する。(1853年)
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33、ペリー再来航。予定通り横浜へ誘導。3月31日、日米和親条約を締結。日本開国する。(1854年)


ふーーーー(-_-;)。「実務派」頑張ったと思わない?言っとくけどこれ全部「命がけの仕事」だよ。いつ「詰め腹切らされ」ても、いつ「後ろからバッサリ殺やられ」ても、それは武士の「定めと掟」と「覚悟」する「サムライの世界」のお話。もういっぺん言うけどさ(-_-;)、「実務派」頑張ったと思わない?これに比べればペリーの野郎なんて他愛も無い「可愛い野郎」だよ。日本に来て、たった5年後には「アル中」になってお死んじまった「可哀想な奴」だったけどね(-_-;)。こっちがペリーを恐れていたって?はははははははははは、大笑い(^〇^)。


「プリティ・ペリー」なんざ誰が恐れたって?


はははははははははは、笑いが止まらん(^〇^)。こっちが恐れてたのは「英露同盟」若しくは「英露協商」による「日本包囲」であって、「ペリー」も「アメリカ」も眼中に無かったよ(笑)。だから、選んだんジャン!ペリーをさ!あの程度なら「ダシ」に丁度いいってさ(笑)!こっちの「本命」は最初から決まってる


「大英帝国」との修交さ。


当たり前ジャン!我らが「実務派」にとって「開国」とは「英露分断」に他ならず、どちらかと結ばなければならなかった。英国は未知の相手だが、ロシアは信明老中時代からの「敵国」だ。みんな忘れてるかもしれないからもう一遍言うよ。源平の昔から


侍は「死太い」のだ。


恩義も怨みも決して「忘れない」の。武士とその文化を舐めちゃいけない。ましてや「武士の中の武士」である「幕臣・実務派」がやってるんだよ。みんな舐めすぎ(-_-;)。ま、やってた本人達もさ、その後にあれほど「ながーーい、ながーーい」「奇想天外」としか言いようが無い紆余曲折があろうとは思いもしなかっただろうけどね(-_-;)。その話はまた次回語ろう。とほほ。


PS、資料の読み違えで「オランダ商館長からの勧告書」を「国王親書」と勘違いしてました。また、年号間違え1箇所修正しました。つつしんで訂正します。個人でやってるとこれだからね(ToT)。とほほ



おまけにみくしー検索かけてみました。



「ペリー来航」

日記 検索 (2件)ひっと。

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