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2016年06月13日15:01

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テレビを見れば。。。。part0078


 さてと、緊急連載「北方領土史」の第7弾。前回、第五次日本侵略軍を率いる「地獄の傀儡子」レザノフが情報工作の成功を契機に長崎へ来航し半年間、日本に「領土の割譲」を迫ったが失敗し部下に日本侵攻を命じた、ってとこまでやった。今回はその続き。

 1806年5月、突如「実務派筆頭」松平信明に老中再任の命令が下る。すぐ、ピンと来たに違いない。「実戦が近づいている」のだと。「バカ殿」共が敗戦を恐れて「逃げ出した」んだってことも。うんざり(-_-;)したに違いない。普段、「改革」だのなんだの偉そうな事いってて「イザ」となるとこれかよ(-_-;)、と。松平信明は老中に再任されるとすぐに


「お庭番」達を呼び集め即時北へ向かわせた。


その一人が伊能忠敬であり、間宮林蔵であり、松田伝十郎だった。「幕府諜報部隊出撃!」ってわけだ(笑)。ま、伊能と間宮はこういうこともあろうかと10年も前から「潜らせ(潜入)」てあった「草(スリーパー)」なんだけどね(笑)。当然、どんどんで現地情報が江戸城の御用部屋(現在の閣議室)へと集まってきた。冷やりとしたに違いない。届いた現地情報は「測量」「威力偵察(武装上陸)」を含む緊迫したものだったからだ。すぐさま防備を固めるために「火力増強」の策がとられ、松前藩には大砲(大筒)さえ送られた。

 1806年10月。「地獄の傀儡子」レザノフの部下ニコライ・フォボストフが樺太・久春古丹に来襲。一旦はこれを占領するが、だが「火力増強」された松前藩兵の数が思いのほか多く(推定200)、占領維持は不可能と見て撤退した。タッチの差だった。あぶねーーー(ToT)。ここだけは「逃げ出してくれたバカ殿」達に感謝だ(笑)。これを受けて1807年3月幕府は緊急事態を宣言し、全蝦夷地の統治権を松前藩から回収。幕府の最精鋭部隊・会津藩を含む東北各藩に対して全蝦夷地への出兵を下令した。


続々と「侍」達は「海(津軽海峡)」を渡った。


1557名を派兵した会津藩を筆頭に秋田藩・仙台藩・弘前藩といった東北各藩は各石高から換算すると全体で1万を少し超える兵力を派兵したようだ。幕府中央からは「兵糧」と追加の「火器(鉄砲と大砲)」、そして和船とはいえ「軍艦(おそらく小早船、英語で言うとカッター)」が送られた。ある意味、これらの侍たちは最初の「屯田兵」たちだった。いまでも北海道の住人はこの時派兵した旧東北諸藩領出身者が過半を越えるが、1807年は事実上の「開拓元年」であり、実に長いあいた「属領」のままだった「北の大地」が「直轄統治(内地化)」されるようになった契機だった。レザノフとの交渉で国際法上の「実効支配の原則」を突きつけられ対応せざろう得なくなったのだろう。東洋的朝貢体制では「朝貢(臣従と交易許可)」さえしてれば「実質的な領土」としても「事実上の外国」としても「臣礼を受ける側」が勝手に決められる、国際政治学上の「緩衝地帯」を「制度的」に認めているんだけどね(-_-;)。なかなか難しい(-_-;)。1804年、


東洋的朝貢体制とヨーロッパ的国際法の対決が長崎で始まった


ってわけだ。信明老中はこれをすぐさま理解しヨーロッパ的国際法へと舵を切った。実はこれが「明治維新」が成功した最大の「理由」なのだ。本当は「法制通史概論」の方でゆっくり語る予定だったんだけどね(-_-;)。ま、いいか(-_-;)。「侍」達は各所で守備に就いた。あとはこっちのもんだった。樺太攻略に失敗したフォボストフは方針を変え日本側の兵站線を切断すべく1807年5月択捉島・利尻島などを同時多発的に襲撃するが武器は劣れど兵力が違った(推定800vs10000)。各地でロシア軍は撃退され、敗走した。ざまあ見ろ(^〇^)。そのまま攻め込んで勘察加(カムチャツカ)も取り返せばよかったんだ。そうすればおまけにアラスカまで付いてきた(笑)。日本領亜米利加ってわけけだ(笑)。1808年にロシア皇帝が撤退を命令し、フォボストフを処罰しているが明らかに敗戦責任を問われたものだった。ウィきると笑えるよ。侵攻命令をロシア皇帝が知らなかったことにされちゃってるからね。んなわきゃない(-_-;)。日本への「謝罪使」一つ送らんのに何言っとん?当たり前だがこの時日本側が勘察加(カムチャツカ)侵攻しても国際法的に完全に正当なのだ。ロシア皇帝はそれを気にしているだけなの。左巻きの宣伝情報工作ウンザリ(-_-;)。さらにウンザリすることはこの時逃げ出した


バカ殿たちがノコノコしゃしゃり出てきて「実務派」の足を引っ張りはじめた


事だろう(怒)。1808年10月幕府は会津藩をはじめとする主力部隊に帰還を命令。案の序、1811年にはヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンが国後島に武装上陸する始末。当然、全員逮捕したがするとロシア側はなんと歓喜丸・観世丸といった民間船を拿捕して高田屋嘉兵衛を始めとする乗組員を人質に取りやがった(怒)!どうも、バカ殿派と松前藩が「実務派直系」の高田屋嘉兵衛の行動情報をロシア側にリークしていた可能性が高い。はーー、バカな上に平然と「売国行為」で「仲間を売る」連中何とかならんのかい?主力を撤退させてなければ、そのまま拉致日本人奪還の兵を勘察加(カムチャツカ)に派兵すれば良いだけではないか!1813年9月、信明老中は泣く泣く国際法違反の人質交換に応じた。


イルクーツク知事をロシア皇帝と見なす「大インチキ」まで呑んでね(ToT)。


それでも信明老中は北方警備の体制だけはいくら「バカ殿派」共が足を引っ張ろうと解こうとしなかった。激務が集中したのが祟ったのだろう。この事件の後体調をくずし1817年8月在任中に亡くなった。55歳だった。男ありき。ありがとう(ToT)・ありがとう(ToT)・ありがとう(ToT)・松平伊豆守信明老中、祖国を、俺達を守ってくれてありがとう心から感謝する<(T^T)。そして、信明老中亡き後「垂直落下式」に腐敗堕落して「明治維新」へと落っこってく「幕府」と、それがもたらした「北方の惨劇」についてはまた次回語ろう。とほほ。


PS、ちなみに松平伊豆守信明老中の領国は愛知県豊橋市。分家(正確には本家か)は千葉県大多喜町を領した。代々優秀な人の出る家系で祖先には秀忠・家光の懐刀として、島原の乱や慶安の変を鎮圧した「知恵伊豆」こと松平信綱がおり、明治後本姓「大河内」に戻した後には日本を代表する科学研究機関「理化学研究所」の実質的な創設者・大河内正敏子爵が出たりしている。こういう人達なら「華族」とみとめていいね。「バカ殿」共は真っ平ごめんだけどね(ToT)。とほほ。




おまけにみくしー検索かけてみました。



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