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2016年05月29日18:01

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テレビを見れば。。。。part0075



 さてと、緊急連載「北方領土史」の第5弾。前回、319年前、勘察加(カムチャツカ)攻撃で幕をあげたロシアの対日侵略は松前藩・武田氏の「敵前逃亡」により悪化の一途をたどり現地アイヌの必死の抵抗もむなしく305年前に千島列島を、250年前に道東諸島を占領されてしまう。ここで「奇跡」が起き勘察加(カムチャツカ)を脱走したベニョヴスキー中佐の告発によって「ロシアの暴虐」が全世界に知れ渡ることとなった、ってとこまでやった。今回はその続き。

 1774年、松前藩の選任した請負人飛騨屋と国後島の酋長ツキノエが漁法をめぐって対立、馬鹿な松前藩がなんと通商封鎖の「経済制裁」をかける。絶句。言っとくけどここ「係争地」だよ?わざわざ現地のアイヌを敵に回してどうすんのよ?今聞いても信じられないぐらい愚劣だ。こんなチャンスあの狡すっからいロシア人が見逃すわけがなく1776年「悪魔の狐」ドミートリィ・シャバーリンとイワン・アンチーピン率いる第四次日本侵略軍を南下させ通商をえさにツキノエを味方につけ国後島までの道東諸島全域を占拠した。後はお決まりの「ロシアン・パラダイス」の開幕だ(-_-;)。アイヌ人たちは我も我も押すな押すなと北海道に逃げてきた(ToT)。盗人猛々しいことにシャバーリンの野郎1778年に厚岸までやってきてぬけぬけと「平和に通商しましょう」だって(-_-;)。その場で打ち殺してやればよかったんだ(怒)。だがここで第二の「奇跡」が起こるベニョヴスキー中佐の告発でヨーロッパでも「ロシアの暴虐」が話題となり始めて第四次日本侵略軍の活動に制限がかかり始めた上、大地震が起こってロシア軍の活動拠点が壊滅したのだ。ははは、ざまあみろ(^〇^)。1782年ロシア軍は千島諸島北部へ撤退。そしてお待ちかね、よーーやく、よーーやく、


「愛国の知識人」が立ち上がってくれたのだ。


おせーえーよーー(ToT)(ToT)(ToT)。先鋒の名は工藤平助。仙台藩主の主治医で蘭学者、ベニョヴスキー中佐の告発に衝撃を受け1783年に国防論「赤蝦夷風説考」を上梓。続いて実態調査のために自ら北へ向かったのが「憂国の数学者」本多利明だ。現地に着くなりあまりの酷さに激怒したらしい。そして1785年には幕府がようやく重い腰を上げ老中・田沼意次の主導で本多利明の弟子最上徳内をはじめとする


「幕府正式調査隊」が結成され本格的な実態調査が始まる。


し・か・し、うまくいかないもんで直後の1787年に政変が起こり田沼老中が失脚、「典型的なバカ殿」松平定信が権力を握ってしまう(-_-;)。「幕府正式調査隊」には帰還命令が下り、なんとか調査を続けようとする最上徳内は誣告で逮捕されてしまう。「赤蝦夷風説考」につづく本格的国防書「海国兵談」を著した医師で警世家の林子平も逮捕され「海国兵談」は版木まで没収され焼却処分になる始末(ToT)。


松平定信って野郎は江戸時代の「東条英機」


見たいな野郎だね。馬鹿すぎて事態が読めずに自分で事態を「悪化」させときながら、自分で「ビックリ」してそのまま自滅するタイプ。周りの人を全部「巻き添え」にしてね(-_-;)。効果覿面だった。1789年再び請負人飛騨屋と国後島の酋長ツキノエが対立。アイヌ人が蜂起しクナシリ・メナシの乱が発生してしまう。ロシア軍にはからっきしダメの松前藩はすぐさま軍を送って反乱を鎮圧した。ゲンナリ(-_-;)。ここまでくると松前藩ロシアからなんか貰ってたんじゃないのかと疑いたくなるね。たぶん、幕府の人間もそう感じたんだろう。それを察知した松前藩はあわてて飛騨屋を解任し阿部屋を後釜に吸えて救援物資を困窮した道東諸島へ送るが、幕府と松前藩の間にはきな臭いにおいが立ち込めだす。そこへ「地獄の傀儡子」ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ率いる第五次日本侵略軍の先遣隊が1792年に「外交使節の顔」してやってくる。明らかにこのとき来たアダム・キリロヴィチ・ラクスマンは国交結ぶ気などサラサラない軍事的偵察部隊。動き怪しすぎだろバレバレ(怒)!1794年にはロシア軍がズヴェゾドチョトフという男を隊長にして得撫島に最侵攻、軍事基地を再建している。これで疑惑は確信へと変わった。このとき幸いなことに幕府側には「能使」が揃っていた。代表的なのは近藤重蔵だろう。幕府の精鋭部隊・火付け盗賊改め方出身で湯島聖堂の学問吟味で首席を収めた俊英だ。長崎奉行所(今で言う外務省)勤務時代から北方の情勢を危ぶんで独自に調査し、1798年からは松前蝦夷地御用取扱として現地調査に赴き、釈放させた最上徳内とともに択捉島に上陸「大日本恵登呂府」の標柱を建立して得撫島との通行を遮断し、松前奉行を設置して道東諸島周辺の「東蝦夷地」の統治権を松前藩から「剥奪」した。ふーーー(-_-;)。「北方領土史」書いててようやく「まともな人」に出会った感じ。高田屋嘉兵衛を抜擢して函館を開発させ北方航路を再建させた人でもあるよねo(^-^)o。札幌の重要性も論じている。まさに八面六臂の大活躍。まさに「能使」、武士たるもんこうじゃなくちゃね(笑)。翌1799年年幕府は津軽・南部両藩に東蝦夷地防衛のための出兵を命令。戦争が始まってから111年目にしてようやく血を流して戦ってきたアイヌたちの元へ後詰め(援軍)が到着したわけだ。騎兵隊到着ーーー(笑)。同年、補給をすべて国後島・択捉島からの収奪に頼っていた得撫島のロシア軍が撤退。1801年には幕吏、富山元十郎が「天長地久大日本属島」の標柱を建立し得撫島を奪回した!すべてがうまく回り始めたが


対ロ外交はこっからが恐ろしいのよ(ToT)。


 1803年、日本側のエース近藤重蔵が突如「謎の叱責」を受けすべての役職を解任されてしまうのだΣ(OoO)。背景には松平定信ら「バカ殿グループ」の暗躍が合ったらしい。書き忘れたが松平定信は1793年に対外政策の失敗の責任を問われて失脚しており、松平信明をはじめとする「能使グループ」が急速に台頭してきていた。だから「能使」近藤重蔵が抜擢を受け存分に腕が振るえたわけだ。松平定信ら「バカ殿グループ」はこのとき、煙たい「能使グループ」を追い落とすために将軍・家斉の実父、一橋治済を動かして「能使グループ」の筆頭松平信明を失脚に追い込んだのだ。正直、松前藩経由での買収・情報工作のにおいがブンブンする。なぜならこの直後に「地獄の傀儡子」ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ自身が突如長崎に現れるからだ。そしてここから「軍事国防」と同時に「国際法」に基づいた「外交国防」というまったく「新しい戦い」が始まる。それについてはまた次回語ろう。とほほ。



おまけにみくしー検索かけてみました。ね、ゼロなんだよ。誰も「国防」を「真面目」に論じてない(怒)!



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