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2016年05月22日22:42

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テレビを見れば。。。。part0072



 さてと、緊急連載「北方領土史」のつづき。前回、北方領土は建国以来「朝貢者」が居住する「属領」だったが、「東北アイヌ反乱軍」と「俘囚長」によって5世紀近くにわたって朝貢ルートが「切断」されてしまい、鎌倉開幕によって1189年に「俘囚長」が打倒され朝貢ルートが「再開通」した、ってとこまでやった。今回はその続き。

 1189年「最後の俘囚長・藤原泰衡」を打倒し、東北地方を制圧した幕府は奥州総奉行を置きの直轄支配を始める。北海道でも直轄統治が始まり現地を良く知る「元俘囚長一族」である安倍氏の中から安藤(安東)氏を抜擢し南に津軽十三湊、北に道南十二館を設置して津軽海峡を「制海(シーコントロール)」させ「蝦夷管領(代官)」に任じた。1217年の話。ここで幕府は朝廷が進めてきた「就農政策」を改め、いや一部修正して稲作の普及運動を「緩和」し、代わりに「漁業」と「鉄器」を中心とした「交易」を勧める新しい政策を導入した。つまり


北洋漁業の誕生


だ。この新しい産業は「日本海海運」と関西における「商業作物生産」とワンセット一組となった優れもの。「北洋漁業」はジモピーがお魚とってたって話ではなく、最初っから「幕府主導」で「全国規模」の「商業生産」の一環として創設された「商業的漁業」なのさ。「幕政」の一部としてね(-_-;)。おかげてトラブルが絶えなかった(-_-;)。お互い「逃げられ」ねーーんだから(-_-;)。だが、効果は絶大であり黒竜江河口までの朝貢ルートは文字道理「再開通」し樺太アイヌは沿海州に「商業拠点」を設置してリレー式の交易ルートを開作にすることに成功した。だが1264年、この交易ルートを警戒したモンゴル軍が樺太に侵攻。「北の元寇」が始まる。ほぼ、九州元寇と時間的に「シンクロ」しており1回目は10年前、2回目は3年後に行われてたのだ。これ一つとっても「元(チャイナ・モンゴル)」側から見てアイヌ(骨嵬)と日本が一体のものであったことが良く判る。正直、この戦争は宗谷海峡北岸まで制圧される「ボロ負け」だったけどね(-_-;)。幸い元で「ナヤン・カアダンの大反乱」と「カイドゥ戦争」が勃発し元軍は撤退。日本側は反撃に転じる。1295年には樺太を奪回、1296年〜1297年にかけて瓦英(おそらく安藤堯勢)・玉不廉古率いるアイヌ(骨嵬)軍が沿海州に上陸しキジ湖で元軍と交戦、1305年にも再度侵攻するが樺太は奪回したもの沿海州の拠点までは回復できず1308年に「講和」する。ここで安藤氏は閉ざされた交易ルートの変わりに「北洋漁業」の強化を打ち出したのだが、これが裏目に出て1320年に東北アイヌの大反乱がおこってしまう。結局、安藤氏は対策に追われて東北アイヌ鎮圧・同化を任務とする「秋田氏」と北洋漁業と北方交易を担当する「本家」に「分裂」する。このころから道東諸島と千島列島への殖民が始まった。ただ、道東諸島はともかく千島列島は寒流である親潮(千島海流)沿いの


「海の上の砂漠」


とも言うべき、厳しい(木が生えない)土地で交易はともかく殖民は余り進まなかった。そのうえ直後の1333年には鎌倉幕府が政変により「滅亡」してしまい。東北全域が「南北朝」の動乱に思いっ切り巻き込まれてしまう。本隊がそのまま戦国時代に突入しちゃったんだから「北方」は大混乱だよ(-_-;)。後一つみんなに指摘しておきたいことは大変残念なことだが


アイヌ人が「文字」を持たなかった事だろう


。おかげで文献学的な北方の歴史がほとんど皆無と言う状態に陥ってしまった。何故「カナ文字」を受け入れてくれなかったのか?慙愧に耐えない。表音文字なのだからそのまま使えたはずなのに(-_-;)。記録は俺たち(和人)に「任せた!」ってとこなんだろうけど、こっちだって完全じゃない。そして恐れていたことが起こってしまう。


「後俘囚長」とも言うべき安藤氏本家が滅亡


してしまうのだ。経緯はこうだ。1432年に当時の党首安藤康季は南朝方の北畠顕家の孫であることから幕府の軍監・南部義政に憎まれ本拠の津軽・狼倉舘(弘前城)を奪われてしまうそこで一旦蝦夷地に撤退して外交交渉で取り戻すも1442年に再び狼倉舘(弘前城)は落城。父のあとを継ぎ1451年息子の安藤義季が再び津軽に上陸するも1453年に南部軍に大敗して自刃。後を継いだいとこの安藤康季が再び蝦夷地に退去するが蝦夷地の掌握に失敗、秋田氏の誘いに応じて蝦夷地を退去した。直後の1456年蝦夷地のアイヌが反乱(コシャマインの乱)。道南の12の交易地の内、10が陥落する大規模なもので武田氏(後の松前氏)が幕府方の南部氏と連携して煽ったものらしい。それを自ら射殺して首を取ったんだから酷い話だ。以後、武田信広は次々と安藤氏の分家をあるいは屈服させ、あるいは滅ぼして幕府の権威を盾に「渡党(安藤氏配下の帰化アイヌ人組織)」を乗っ取っていった。このとき、多くの貴重な資料が「消失」した。乗っ取りの証拠隠滅のためにね(-_-;)。信広は1462年に勝山館を築城し1475年には樺太アイヌの首長に朝貢させ間接統治を再建している。だが安藤氏と


「渡党(安藤氏配下の帰化アイヌ人組織)」というバッファー


を失った、蝦夷地統治はとても殺伐としたものになっていく。1515年のショヤコウジ兄弟の乱、1521年、1525年、1528年のアイヌ蜂起。1529年タナサカシの乱、1536年タナサカシの娘婿・タリコナの反乱、1555年のチコモタイン・ハシタインとの対立と講和、1643年ヘナウケの乱、1655年メナシクルとシュムクルの抗争、1669年シャクシャインの乱と


切がない!


これは歴史に明記された大規模なものばかりで細かい抗争レベルのものを入れると数え切れない(-_-;)。「渡党」時代には無かったものだ。ふーーー(-_-;)。ま、これは北方領土史であってアイヌ史ではないので一旦話を元に戻そう。松前藩はあまり本拠の渡島半島を動きたがらず北海道南部を直接統治し、北海道北部と北方領土(千島・樺太)を朝貢による間接統治によって治めた。1500年代にはアイヌの遠征隊はカムチャツカ半島にも到達したらしい。1644年に江戸幕府の命令により作成された正保御国絵図に千島列島があり、1700年の松前島郷帳に勘察加(カムチャツカ)の文字があるからだ。正保御国絵図の方の文字を確かめたいがこの地図グクッてみるとヒットはなんとたった20件!日本に愛国者はおらんのか(激怒)!だーーやっぱり図書館まで調べに行く羽目になるのね<(T^T)>。何で俺だけこんな目にあうの?「緊急連載」なのに長引く長引く、ついに国際法の話しまで行けなかった。うんざり(ToT)。というわけで続きはまた次回語ろう



おまけにみくしー検索かけてみました。



 「アイヌ」

日記 検索 (40件)ひっと。
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