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2016年05月19日21:19

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テレビを見れば。。。。part0071


 くそ!大政翼賛会(自民党と民進党)め!ついに領土の「切り売り」始めやがった(激怒)!去年9月に憂慮した「道東諸島(通称・北方領土)の全面放棄交渉」が実行段階に入った。正気じゃねーー(激怒)!「稀代の売国奴」安倍晋三は今月5日に膨大な経済援助と引き換えにハゲチビ(プーチン)とソチで会談し、正式に訪日を要請した。どうもロシア側の動きから見て「3島決着(歯舞、色丹、国後)」それも「国境線画定(国内へのロシア軍駐留の正式許可!!!)」で話が進んでいるらしい。ぞーーーー、繰り返すが正気じゃない(怒)!なんでみんな怒んないの?これに「日露平和友好条約」を組み合わせれば


北海道へのロシア軍の「無血進駐」が可能


になるんだよ?「条約」に「付帯条項」を設けて「駐留範囲」を「政府間協定」で定めればこれを「改定」するだけで札幌に「進駐」できるんだ。国際法的に「合法」にね(ToT)(ToT)(ToT)。ぞーーーー。あまりのデタラメに寝込んじゃいそうだよ!くっされ!なのになんで誰も何にも言わないの?日本は巨大な「ボケ病棟」か(激怒)!ぼやいててもしょうがない。対ロシア、外交国防、軍事国防、情報国防の「3つの国防」のうち前者2つがすでに「崩壊寸前」で情報国防はすでに「崩壊」していて「完全消滅」間近だ。すーーっと「黒い穴」に落っこってく感じだね。ホント、ぶっ倒れそうだ。大政翼賛会(自民党と民進党)覚えてろよ。絶対、落とし前付けさせるからな(ToT)(ToT)(ToT)!「崩壊寸前」の前者2つはおそらくこのまま「崩壊」するだろう。く、(ToT)(ToT)(ToT)。俺にはどうにもならない(ToT)(ToT)(ToT)。できるのはすでに崩壊した情報国防を「再建」することだけだ。日本における「ロシア情報工作網」は目の前暗くなるような「巨大組織」で本来、FBIクラスの「対抗組織」が「絶対必要」な大仕事。なんで、オタッキーが「個人」でやらなきゃならんのよ?やらせたいなら年間5000億円ほど「予算」と逮捕権・押収権を含めた「捜査権限」よこせ(怒)!まず、


北方4島の「定義」が間違ってる!


「北方領土」とは全樺太と全千島を指した「国際法用語」であり、現在交渉の対象となっている歯舞・色丹・国後・択捉の四島は「道東諸島」とも言うべき北海道の「付属島礁」であり絶対に「領土交渉」の対象にはしてはならない(怒)!なぜならそれを認めれば「北海道自体」も「領土交渉の対象」になってしまうからだ!現になってるだろ「今現在」!九州で言えば「薩南諸島」がこれに当たる。「種子島」を放棄すればチャイナ軍の九州上陸は「目の前」だぞ。それと同じ!判れよこのぐらい!ここでは深く突っ込まんが「九州出身」の「明治の元勲」達がやらかした「壮絶な裏切り行為」をおれは絶対に「許さない」。北海道民も九州諸県民も俺にとっては「かけがいの無い同胞」であり「放棄」することは許さない「絶対」にだ(怒)!ふーーー(-_-;)。これに関しては改めて別項を立てることにするよ(-_-;)。でも頭にくる(怒)!ここで一人怒っててもしょうがない(-_-;)。頭を冷やして「日本国民」が「共有」すべき「北方領土の歴史」を簡単に振り返っておこう。


北方領土が日本に帰属したのは飛鳥時代のはじめ


であり、漢代に書かれた地理書「山海経」には日本の北部国境は黒竜江(アムール川)の河口にあるとの記述から建国当初から「朝貢」する者が居住する「属領」だったことがよくわかる。ただ、大和朝廷は「稲作」を基本産業とする「農耕国家建設」を当時は目指しており、「狩猟・採集民」である北方アイヌ人の統合に酷く手まどった。おりしも百済王国敗退・滅亡に伴い帰還した「在韓日本人(帰化人)」の東北殖民運動に伴い北方アイヌ人との関係が急速に悪化し平安時代中期まで断続的に続く「東北蝦夷戦争」が起こってしまう。「朝貢」ルートを遮断され「米」を始めとする基本的資材の購入ルートを絶たれた樺太アイヌ人たちは已む無く「朝貢」先を「唐(チャイナ)」に切り替えてしまったために北方領土は日唐「両属」の地に形式上なってしまったわけだ(-_-;)。ここから「北方領土史」の「捻じれ」が始まった。「東北蝦夷戦争」の前線基地として設営された「多賀城」に「靺鞨国(満州国)との国境から三千里」との石碑があるのはこれが理由だ。朝廷は「多賀城」に「農事試験場」を設け東北アイヌに「稲作」を勧めるが元々熱帯性の植物である「稲」は東北の気候になかなかなじまず失敗の連続だった。成功したのは「明治時代末期」だもんね(-_-;)。「稲作勧めず、麦作進める」手もあったはずなんだが(-_-;)。結局、中央貴族を買収した地元豪族が北東北3県に「半独立」の「蝦夷王国(俘囚長)」が割拠する「異常事態」に陥ってしまう。ちなみに「稀代の売国奴」安倍晋三は「俘囚長・安倍貞任」の子孫なんだそうだ(笑)。この異常事態は「軍隊」を廃止した「平安帝国」では解決できず、再建された「鎌倉幕府」が1189年に「大軍」を送って「奥州藤原氏」を滅ぼすまで続いた。少しチャートしようか


1、建国直後から北方領土の人々(樺太アイヌ人等)は大和朝廷に「朝貢」していた。(西暦50年頃?)
          ↓
2、飛鳥時代のはじめに官軍が樺太に上陸。日本帰属を宣言。(西暦500年前後か?)
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3、「帰化人」の東北殖民運動始まる。朝廷とアイヌ人の関係が急速に悪化する。(西暦570年頃?)
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4、蝦夷反乱。「東北蝦夷戦争」始まる。(西暦581年)
          ↓
5、朝貢ルートが遮断され樺太アイヌ人が「唐(チャイナ)」に朝貢。樺太、日唐「両属」となる。(西暦640年)
          ↓
6、阿倍比羅夫が反乱した北海道・樺太に再侵攻。再度、領有を宣言する。(西暦660年)
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7、百済滅亡。(西暦663年)
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8、出羽柵設置。「帰化人」の東北殖民運動が本格化する。(西暦703年)
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9、反乱激化、按察使上毛野広人が戦死。朝貢ルート再び遮断される。(西暦720年)
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10、多賀城設置。農事試験場を設けアイヌ人に「就農」を勧める。(西暦724年)
          ↓
11、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北アイヌ主力部隊を撃破。(西暦802年)
          ↓
12、征夷将軍・文屋綿麻呂が津軽海峡までの東北全域を制圧、「東北蝦夷戦争」終結。(西暦811年)


延々と実に230年間も続いた戦争はようやく大和朝廷(そして帰化人)の「全面勝利」によって終結した。だか、この長い長い戦争は日本の歴史に大きな暗い影を残すこととなった。この戦いの後、戦いに敗れた「東北アイヌ人」たちは再び反乱を起こせないように日本全国にバラバラに「強制移住」させられたのだ。かれらは「俘囚」と呼ばれ社会の底辺で屠畜業や芸能業などの仕事に代々就いた。これがおそらく


「同和問題」の起源だ。


時間があれば文献学的に論証してみたいがおそらくその時間は俺にはあるまい(-_-;)。1200年間もたっちゃうとその他の微妙な要素も加味して論じなければならないし、それに本来これは「彼ら」が「自分たち自身」で「乗り越えなければ」ならない課題だしね(-_-;)。ふーー、話がずれた元に戻そう。多くの人に多くの傷を残して戦争は終わった。だが、東北の情勢はお世辞も良いとは言えず。そっから先の北方領土への道は「遮断」されたままとなった。うっかり出てって再び「反乱」がおこったら目も当てられない。「全滅」は絶対確実保障つきだ(笑)。そこで朝廷は戦争中現地に「土着」しアイヌ人たちと混血した下級官僚を抜擢し、これに現地と「朝貢」ルートを管理させる「間接統治」にうって出た。多くの氏族がこれに参加した。征夷大将軍・坂上田村麻呂もこの一人だ。もっとも本人は息子残して京都に帰っちゃったけどね(笑)。その後の経緯は良く判らない。だがそれらの氏族の中で「朝貢」ルートを押さえ「俘囚長(ふちゅうのおさ)」として台頭してきたのが「陸奥の安倍氏」と「出羽の清原氏」だった。そしてそのポジションに魅力を感じ「成り代わろう」としたのが後に「武士の棟梁」となる清和源氏の長


源頼義だった。


ふーー、こわいこわい。近寄りたくないねーーー(ToT)。義家は陸奥守に任官し関東の武士たちを引き連れて東北へ向かった。そのまま官軍は「陸奥の安倍氏」の領土に突入戦争が始まった。頼義は安倍氏の棟梁・頼時を討ち取るが黄海の戦い大敗。やむえずもう一人の「俘囚長・清原氏」に援軍をたのみ、参戦した清原軍はわずか一月で厨川柵(岩手県盛岡市)を攻略。安倍氏(本家)は滅亡する。どうも後の経緯を考えると「分家」や「家臣」の「助命」を条件に「降伏」の算段ができていたらしい。ここで二つあった「俘囚長」が血なまぐさく統合されたわけだ。安倍氏単独でも勝てなかった源頼義が「統一された俘囚長」に勝てるわけが無く、戦争の拡大を恐れた朝廷は頼義を更迭。足掛け13にわたった戦争は名目「朝廷・源氏」、実質「俘囚長・清原氏」の勝利によって幕を閉じた(前九年の役)。だが、「武士の喧嘩はここからが本番」。


侍は「死太い」のだ(笑)。


体半分モゲてもカサカサ逃げていくゴキブリの1000倍「死太い」の(笑)。親父が駄目なら息子が、兄貴が駄目なら弟が、息子が駄目なら孫が戦いを引き継ぎ


「勝つまでやる」の(笑)。


アングロサクソンもびっくりダ!当然このときもそうなった。戦争終結からちょうど20年後、再びやってきたのは後に「八幡太郎」と家来たちに尊称されることとなる


清和源氏の長・源義家だった。


義家は清原一族の内紛に漬け込み一挙に攻め込もうとするが、味方につけた清原真衡が急死してしまい最初から作戦は失敗してしまう。仕方が無いので敵の二人に領土を分割し仲間割れを誘う。案の定、不満を持った清原家衡は協定を無視して清原清衡を攻撃、妻子・一族を皆殺しにする。清原清衡は当然、報復のために源義家と同盟を結び家衡を攻撃。連合軍は金沢柵(岩手県横手市)に清原氏を滅ぼした。だが朝廷はこれを源義家の「私戦(私的な喧嘩)」とみなし、恩賞・補給を拒否。源義家は泣く泣く私財で家来たちに「恩賞」を出し、東北から撤退した。清原清衡は「俘囚長」と清原氏の全領土を相続。養家の姓を捨てて本姓の藤原氏を名乗り、ここに「奥州藤原氏」の統治が始まる。繰り替えすが「武士の喧嘩はここからが本番」。だが簡単にはいかなかった。なんと


「保元・平治の動乱」で清和源氏はほぼ「全滅」してしまったからだ。


辛うじて生き延びた義家のひ孫が「流人」源頼朝だ。あとは皆さん知ってのとおり、「鎌倉開幕」の大逆転劇で宿敵・桓武平家を滅ぼし、1189年東北へ侵攻。「奥州藤原氏」を滅ぼし全国を統一した。ようやく469年間も続いたアイヌ反乱軍と「俘囚長」による「朝貢」ルートの封鎖が解け北進が可能となった。それ以降の歴史についてはまた次回語ろう。つうか、疲れた(ToT)。とほほ。



おまけにみくしー検索かけてみました。



 「北方領土」

日記 検索 (20件)ひっと。

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