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2015年03月17日13:48

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最近、考えたこと。Part0005-2

{論考が長すぎて10000字以内に収まらなかったので分割、そして続き}

エリツィンは比較的自由にやった。少なくとも、ゴルバチョフよりはずっと裁量権が多かった。そうしなければ西側を騙せなかったからだ。政治的スタンスは左派リベラルってとこだが、やってたことは国有資産の切り売りだった。外資を呼び込み喉から手が出るほど欲しいハイテクを手に入りるためにはそれしかなかった。これはだれもが驚くほど成功した。もともと、世界最大の領土を持つ資源大国。そこに、西側のハイテクを持ち込んだんだから効果的面だった。たとえば石油。ソ連時代、採油のために油田に水を注入していたのだか、油田はみなすぐ枯れてしまった。しかし、その枯れた油田に炭酸ガスを注入するとあら不思議、どはーーーと石油が噴き出してきた(笑)。一事が万事この調子。疲弊しきった経済はみるみる回復していった。しかし、当然だが効果てきめんの政策は強烈な副作用も伴った。国営企業を切り売りしてそれが支払う売上税を徴収できなくなるのに、税制が未整備なんで新設企業から徴税できない。当然、財政は破錠する。共産党は共産国家は無税で「人民のパラダイス」だと宣伝してきたが、んなわきゃーーーない!実は人民に判らないように卸売りの段階で27パーセントもの売上税を課していたのがこれでバレた(笑)。「左翼はいつの時代も大嘘つき」のまんまだね(笑)。財政が破錠したらいつの時代どこの世界でも権力者のやることは一つ。澄まして言えば「通貨の切り下げ」、正直言えば「借金踏み倒し」だ。ロシア政府はだーーーとお札を刷ってぱっぱとばらまいた。当たり前だが物価は暴騰。あれよあれよという間に物価は100倍になった。これを「経済的ショック療法」もしくは「ハイパー・インフレーション政策」という。物価が100倍になるという事は通貨価値が1/100になるという事。1000万円の貯金が「経済的ショック療法」前の10万円になり、20万円のお給料が2000円になっちゃうってこと。政府が腹をくくると国民の債権など紙くずになる。当然、国民はのた打ち回った。特に悲惨なのは年金生活者、長年ためてた貯蓄が全てパーになり乞食同然になった。一部の国民は思いっ切りグレてロシアン・マフィアは経済に負けず劣らす高度成長をとげた。「泥棒貴族(新興財閥)とロシアン・マフィアの狂乱の90年代」ってわけだ。ある意味、仕方なかったと思う。しかし、あそこまで急激にやる必要あったんだろうか?西側の制度を研究し債券市場と税務制度を整えながら徐々に国営企業を分割・民営化(売却)する手もあったはずだ。だか、「シロビキ(武闘派)」はそれを許さなかった。「ん、物価が100倍になる?お前の給料は1000倍にしてやるからさっさとやれ!」、KGBは「酔っ払い」が対処できるようなしろものではございません。アメリカ人にはこれが判らなかった。もちろん、日本人にはもっと判らなかった。KGBは急成長したロシアン・マフィアの財布に思いっ切り手を突っ込んで上前を撥ねることによってこれまで以上に潤った。この「ヤクザの上前を撥ねる警察」方式は二つの意味で後に大問題となる。

 まず、火を噴いたのがロシア最高会議(国会)だった。あたりまえだ、「シロビキ(武闘派)」に脅されたとはいえ物価100倍にしちゃったのだ。そりゃ、「うせろ、アホ大統領ーーー!」と突き上げられるわな(笑)。そして、ここで出てくるのがチェチェン問題なのだ。チェチェン人はコーカサス北部に住むイスラム系遊牧民族。元気な連中でソ連崩壊後、モスクワの(密輸)中古車販売をほぼ独占し、チェチェン・マフィアと呼ばれていた。チェチェン人達はソ連時代繰り返し繰り返し民族浄化を受けており、ロシア特にKGBには恨み骨髄だった。無理もない、スターリン時代なんて総人口の半分をグラーグ(絶滅収容所群)に送られ、残りの半分をエスニック・クレンジング(民族浄化)されたのだ。ロシアン・マフィア同様にKGBに上納金を要求されたチェチェン・マフィアは条件反射的にこれを拒否した。チェチェン・マフィアに言わせれば「KGBに貢ぐぐらいなら故郷に送金するよ。エスニック・クレンジング(民族浄化)でいまだに焼野原なんだからな!」てことだね。これが、悲劇の始まりだった。カウンターはすぐ来た。KGBの命令を受けたロシアン・マフィアの襲撃は激増した。気の荒いチェチェン・マフィアも遠慮会釈なくやり返したが、多勢に無勢、旗色が悪い。なにしろ、モスクワのど真ん中なのだ。これが当時「白黒戦争」とよばれたモスクワ・ギャングウォーの内幕。チェチェン人たちは結束して、当時ロシア最高会議(国会)の議長だったチェチェン人ルスラン・ハズブラートフに泣きつく。ハズブラートフはもともとエリツィンのデタラメ政策に怒っていたうえ、仲間のチェチェン人が無茶な理由で弾圧されて激怒。アレクサンドル・ルツコイ副大統領を仲間に引き入れ議会でガンガン、エリツィンを追い込む。しかーーーし、KGBに議会での追及など通じるわけがない。「シロビキ(武闘派)」に命じられるまま、エリツィンは「大統領令1400号」に署名。なんと、憲法まんま無視して議会を強制廃止した。1993年9月、ロシアに「大統領のクーデター」が発生したわけだ。ひとのよいハズブラートフもルツコイも仰天した。二人はホワイトハウス(ロシア最高会議議事堂)に逃げ込み、正規の手続に従ってエリツィン大統領を解任。ルツコイ副大統領を大統領代行に指名するが、KGBに命じられた軍は迷わずホワイトハウスを包囲して砲撃した!どーーーん。ぼかーーーん。おいらは当時ニュースでこの映像を見ながらハズブラートフ同様に仰天した。「おいおい、国会砲撃していいのかよ?」と自然に口から出た。そして、周りを見渡し誰も怒ってないのに二度仰天。当時のニュースキャスターで「国会に大砲ブチ込んだエリツィン」を非難した奴はゼロだった。各国首脳もゼロだった。身の回りの人間もゼロだった。正直、KGBの「世論コントロール能力」の高さを実感してぞーーーーとしたのはあれが最初だった。ま、閑話休題、話を元に戻そう。ハズブラートフもルツコイも泣く子と地頭には勝てません。議員・職員1000人近くが殺傷されたあげくロシア最高会議(国会)は武力制圧された。そのあと、エリツィンは自由にKGBが投票操作のできる形でロシア連邦議会を創設。可能な限り合法的にやろうとしていたチェチェン人たちはこれを見て絶望し、故郷に帰って独立運動へと身を投じていく。

しばらくは、小康状態が続いた。だが翌年1994年12月第一次チェチェン戦争が勃発した。「シロビキ(武闘派)」にとっては「拒否」は恐怖に準ずるほどの激しい憎悪を意味した。KGBはハズブラートフを逮捕してロシア本土からチェチェン勢力を追い出しただけでは飽き足らずチェチェン本土への軍事侵攻を開始する。上納金拒否から始まったロシア・チェチェン間の紛争はついに戦争にまで発展した。はじめ、ロシアもチェチェンも事態を軽く見ていた。ロシア側は軽装の軍事警察(国内軍)を送ればすぐ片付くと思っていたし、チェチェン側もタイミングを見て詫びを入れれはうまくいくと思っていた。しかし、事態はドンドン深刻化した。ロシア側の軍事警察(国内軍)はチェチェン側の猛烈な反撃を受けてほぼ壊滅、激怒したKGBは重装備の正規軍を大量投入して1995年2月一挙に首都クロズヌイを制圧する。エリツィンは懸命に戦争を止めようとするが、空爆停止命令はじめ指令を悉くKGBに無視される。しかし、次第にメディアを支配するボリス・ベレゾフスキーら「オリガルヒ(新興財閥)」を頼るようになり1996年3月の再選後、アレクサンドル・レべジ将軍を抜擢し5年間の停戦を核とする休戦条約を捕り付けることに成功する。

 再び、「拒否」に合った「シロビキ(武闘派)」は激しい憎悪の矛先をエリツィンと「オリガルヒ(新興財閥)」に向け始める。特にレべジ将軍の抜擢はKGBに強い衝撃を与えた。無敵のKGBも軍と最高権力者が直結するときほぼ完全に無力化されてしまう。それを防ぐ方法はダダひとつ最高権力をKGB自身で抑えるしかない。「ベリヤの悪夢」にうなされた「シロビキ(武闘派)」達は即座にエリッィン追放の計画に着手する。準備は1年を費やして綿密に行われた。まず、1996年6月大統領直属だったGUO(ロシア大統領護衛総局)が解体され、FSB直属のFSO(ロシア連邦警護庁)に改組されてしまう。いくら、酔っ払いでもこの意味はすぐ分かった。「おい、いつでも殺せるぞ」ってぼそっと耳元でささやかれたみたいなもんだ。ぞーーー。ついで、大統領府内部への工作員として、ウラジミール・プーチン副市長がサンクトペテルブルグから呼ばれ大統領府総務次長に就任する。同時にエリツィンの次女タチアナ・ユマチェフへと近づき巨額の収賄を餌に大統領顧問に祭り上げる。護衛を外され、いまやチェチェン・ゲリラとFSB双方の「的」にされてしまった「酔っ払い」エリツィンが泣きを入れるのは時間の問題だった。そこにプーチンが付け込んで、「お困りですか?」とにっこり笑って近づいた。恐怖に駆られたエリツィンはこのやり手で実直そうな男に泣きついた。プーチンは1997年3月にはタチアナの夫ワレンチン・ユマチェフを大統領府長官につけその下で副長官に就任、1998年3月には第一副長官に昇進して大統領府内部の実権を握る。あとは簡単だった。側近中の側近になったプーチンは5年もの長きにわたって政権を支えてきたチェルノムイルジン首相を追放するようタチアナと共に進言する。そしてエリツィンがチェルノムイルジン首相を解任するとすーーーとしらばっくれて1998年5月FSB長官へと転出した。プーチンの工作で主要な味方をみな自分で追放してしまったエリツィンはもうFSBを頼るしかなかった。ロシア経済危機でキリエンコ首相が解任された後プリマコフ(元SVR長官)、ステパシン(元FSB長官)とアドバルーン役のシロビキ(武闘派)出身者が二代続けて短期首相を務めた後、プーチンはFSB長官としてタチアナの巨額収賄を証明する捜査資料を携えてエリツィンの元を訪れる。「いったいこれはどうゆうことなんだぁ!あぁ、わかってんのか、ごらぁ!」と凄んだ(笑)。1999年8月プーチンは3人目のシロビキ(武闘派)出身の首相となり、刑事免責を餌に1999年12月エリツィン大統領を引きずりおろし大統領代行としてこれを追放した。しかし、なんつーー手口だ!ちなみに、エリツィンは口止め料としてモスクワ中心部の60階建てと73階建ての超高層ビルを丸々二本もらったそうだ。ざっと25億ドル=3000億円ってとこか。もう一遍言うけど、なんつーー手口だ!

 こっからさきはもうムチャクャだった。KGBは史上初めてロシアの単独独裁権をえた。もう、タガが外れたようにやりたい放題になった。まずやったことは、エリツィンとレべジ将軍に防ぎとめられたチェチェン戦争の続きだった。チェチェン側に戦争意図は全くなかった。半分とはいえようやく念願の独立を果たし、マスハドフ大統領以下、人口の一割が死んだ戦争の再開なんぞまっぴらごめんだった。そこに青天の霹靂の様に事件は起こった。1999年8月チェチェン軍の一部がシャミル・バザエフ司令官とアミール・ハッターブ義勇軍隊長の指揮下、隣国タゲスタン共和国に攻め込んだのだ。同月から翌月にかけてロシア全土の5ヶ所で時限爆弾が爆発、1000人近くが死傷する大惨事になった。首相に就いたプーチンは爆破テロを即座にチェチェン・ゲリラの犯行と断定し「テロリストを便所に追い詰め、ぶっ殺す!」と宣言してロシア正規軍をチェチェン本土に突入させた。第二次チェチェン戦争が勃発した。だか、シャミル・バザエフとアミール・ハッターブはどう見てもGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)工作員だし、連続爆破事件はリャザン事件を見れは明らかな様にFSBの自作自演だった。自国民を自分達で殺しといてそれを名目として隣国へ攻め込むって、どういう神経してんだか全く理解できない。自国民それも軍人とその家族をだ!絶句。プーチンとKGBは独裁権を得たことによって「一種の全能感」にとらわれてるのではなかろうか?「神様気分の妄想」に浸っている。おいらにはそうとしか見えないよ。チェチェン側は完全に油断しており、防備など全くなかった。正規の独立交渉は2年後だし、大体5年間の休戦協定は有効だったはずだった。なのに、いきなり大軍に攻め込まれた。まるで満州侵攻だ。2000年2月には首都クロズヌイがあっさり陥落。マスハドフ大統領以下政府首脳は全員潜伏逃亡するしか道はなかった。KGBとロシア軍は徹底的な追撃掃討作戦を実施。チェチェン全土はまさに火の海になった。2度の戦争で25万人のチェチェン人が死んだ。人口100万に満たないチェチェン人の1/4が死んだ。マスハドフ大統領は2005年3月クロズヌイ郊外のアジトを軍の特殊部隊に強襲されて戦死。5人のチェチェン大統領の全てがロシア軍とKGB工作員の手によって殺害された。チェチェン側にできたのはロシア側に寝かえったカディロフ「大統領」を2004年6月に爆殺することだけだった。2009年4月ロシア政府は掃討作戦の終了を宣言。平和が蘇った「墓場の平和」が。。。

 次にやったのは、一言でいえば「財閥退治」だ。KGBは「オリガルヒ(新興財閥)」がエリツィンに同調して平和を求めたことを忘れてはいなかった。同時にこれは庶民の怨念と嫉妬を晴らす人気取り政策でもあっただろう。サッチャー総理の言う通り「金持ちを貧乏人にしても、貧乏人は金持ちになれない」んだが、「他人の不幸は蜜の味」いつの時代もどこの世界でも庶民は成功者を引きずり下ろす政策が大好きだ。とほほな現実。ロシアの庶民に言いたいよ金持ちを貧乏人に引きずり下ろした後、やって来たのは貧乏人を奴隷いや家畜に引きずり下ろす「グラーグ(絶滅収容所群)」だったんだぜ。いいかげんきずけよ!攻撃は脱税の捜査から始まった。しかーーし、その手口は税法以前に税金を払っていないのは許せないとういKGB独特のものだった(笑)。言われた「オリガルヒ(新興財閥)」は全員目が点になった。ついで、頭の中が「?」で一杯になった。税法無いのにどうやって納税できるんだ?税法創る前に「経済的ショック療法」をエリツィンに強制したのはKGBだ、て、お前がゆうか?無理が通れば道理引っ込む。まず、1999年3月ロシア公共テレビ(ORT)社主のロゴヴァズ財閥当主ボリス・ベレゾフスキー社長がプリマコフ首相の手で政権から追放された。次いで2000年6月「独立テレビ」(NTV)の社主でモスト財閥当主ウラジーミル・グシンスキー社長逮捕されスペインへ亡命。2001年4月「独立テレビ」(NTV)は政府系ガスフロム社に買収されてしまう。翌月2001年5月にはボリス・ベレゾフスキー社長がロシア公共テレビ(ORT)を番頭のロマン・アブラモヴィッチに売却してロンドンへ亡命。2003年10月には選挙に出馬を表明していたユスコ・オイルのミハイル・ホドルコフスキー社長が逮捕される。メディア関係・議会関係の「オリガルヒ(新興財閥)」が狙い撃ちされたことがよくわかる。ロマン・アブラモヴィッチを見ればわかるように、残りの「オリガルヒ(新興財閥)」は企業を政府に売却して現金もって国外へ亡命するか、「役員」を政府から受け入れて針の筵に座って我慢するかを迫られた。2004年〜2006年にかけてほぼ全ての「オリガルヒ(新興財閥)」が政府の統制下に置かれた。まさに国家社会主義(ナチズム)だ。

そして、最後にKGBの本業を再開した。つまり、政敵の「物理的抹殺」である。5人のチェチェン大統領は手始めに過ぎなかった。まず、ターゲットになったのは当然アレクサンドル・レべジ将軍だった。最高権力と直結した軍人をKGBは許さなかった。勘のいい将軍はエリツィンの失脚とともに中央から脱出し、クラスノヤルスクの知事に転出していたのだが、2002年4月謎のヘリコプター墜落事故で亡くなった。ほぼ間違いなく暗殺だろう。なぜなら、飛行機事故を偽装した暗殺はKGBが最も好む得意の暗殺プロットだからだ。1988年8月にはアフガニスタンを巡ってソ連と激しく対立していたパキスタンのジア・ウル・ハク大統領がこの方法で暗殺されている。北朝鮮の金一族なんざこれをよく知ってるんで絶対に飛行機乗らないぐらいだ(笑)。ついで、ジャーナリストを殺し始めた。2006年までにプーチン政権に批判的な34人のジャーナリストが次々と変死した。代表的なケースはアンナ・ポリトコフスカヤ女史のケースだろう。プーチンの民族浄化としか言いようのないチェチェン弾圧に怒って政権批判を繰り返していたが、2006年10月に自宅マンションのエレベーター内で射殺された。ペンは剣より「絶対的に弱い」。たがな、ジャーナリスト殺したところでジャーナリストが訴えた「事実」は決して死なない。それでも地球は回ってる。それを誰かあの「ハゲチビ」に教えてやってくれ!とほほ。

 しかし、ここで誰も予測してなかったことが起こる。KGBが割れたのだ。1998年11月FSBの最精鋭部隊ルポ(対組織犯罪担当特別捜査チーム)の副隊長アレクサンドル・リトビネンコ中佐が7人の部下とともにモスクワで記者会見を開いたのだ。!!!。前代未聞、チェキスト(KGB職員)の記者会見!おいらも見たけど真昼間に幽霊見たかと思うぐらい仰天した。しかも、内容が凄い、リトビネンコ中佐は局長のエフゲニー・ホホリコフ少将と隊長のアレクサンドル・カムイシュニコフ大佐に、ボリス・ベレゾフスキーとミハイル・トレパシュキンの暗殺を口頭で指示されたが、命令を拒否したというものだった。また、あわせてFSBの一部幹部職員が政治的脅迫や契約殺人(つまり殺し屋)などの犯罪活動にFSBの命令機構を利用していると告発した。正に驚愕の告発だった。しかし、まもなく、弾圧ははじまった。1999年3月、中佐は全く身に覚えのない容疑で逮捕され、レフォルトヴォ拘置所に収監される。11月裁判で無罪となるも、その場で別の罪で逮捕され再収監される。しかし、無罪どころか犯罪構成要件の不在(つまりでっち上げがばれて)で裁判は停止され2000年9月ようやく釈放された。しかし、3度目の告発が傍聴不能の軍事裁判であるのを素早く察し2000年11月、家族と共にロシアを脱出、イギリスに亡命した。

ここで少し話を戻そう。アレクサンドル・リトビネンコは1962年ロシア本土中部の町ボロジネで生まれた。スポーツ万能で正義感が強く面倒見のいい男だったから子供のころからガキ大将だったに違いない。高校卒業後、徴兵され軍に入隊したリトビネンコはその強い正義感を買われて間もなく憲兵(軍隊内警察官)に抜擢される。この仕事は彼にとってまさに天職だった。まもなく、その腕を買われて軍から一般警察へ出向したリトビネンコは対組織犯罪捜査つまりマフィア・テロリズム関連捜査で危険を顧みず勇名をはせ、モスクワ警視庁から「われらが英雄」と称えられた。それがKGBの目に留まった。当時、KGBは機構改革の必要性を切実に感じておりそのために優秀な刑事警察官を求めていた。つまり、自らをFBIに偽装するために「本物の刑事」が必要だったわけだ。かれは正にうってつけの人物だった。1988年、アレクサンドル・リトビネンコはKGBに入隊。おそらく、命令だっただろう。軍籍に在って警察に出向していた彼にはもとより拒否権が無かった。これが彼の苦難の始まりだった。移籍後も最も危険な捜査である対組織犯罪捜査を担当した。不満はあっても「国民を守る仕事」であることには違いないと任務に精勤し、とんとん拍子に出世してKGB史上最年少で中佐に昇進、最精鋭部隊ルポ(対組織犯罪担当特別捜査チーム)を任された(ルポの隊長は上から降りてくる管理官なので実質的には副隊長がトップ)。彼は組織犯罪壊滅のために各マフィアグループとテロ組織の背後関係を徹底的に洗った。そして、気付いて仕舞ったのだ、KGBの「ヤクザの上前を撥ねる警察」方式に。。。中佐は驚愕し悩みに悩んだ。無理もない、国民守るためマフィアを追いかけてたら行く道行く道、全部、自分の上官たちの家にたどり着いちゃったんだから(笑)。たがリトビネンコ中佐はガキじゃない。なんとか、現実と折り合おうとした。今は酷い状態でも努力すれば少しはマシな状況が作れるのではないかといろんな人に相談をしている。そのうちの一人が、当時エリツィン政権の国家安全保障担当書記をしていたロゴヴァズ財閥のボリス・ベレゾフスキー社長だった。ベレゾフスキー社長は一つの賭けに出る。当時、まだ表面上仲の良かったFSB長官ウラジミール・プーチン元中佐をリトビネンコ中佐に会わせたのだ。二人の中佐は盗聴を避けるために大統領府内部の工事中のエレベーターシャフトの中で密会した。リトビネンコ中佐はそれまでの捜査で判明したマフィアグループとFSB幹部職員との関係を証明する子細な関連図と分厚い捜査資料をプーチン長官に渡し、善処を求めた。逮捕はできなくてもせめて配置換えでもして実権をそぎ「関係」を終わらせる事が長官なら出来る筈ですと懸命に訴えた。プーチンは資料を読むと顔を強張らせ、わかったと短く言うとリトビネンコ中佐を激励し去って行った。だか、これはトンデモないお門違いだった。数学者(ベレゾフスキーは元数学者)はすぐ「公式」を信じるからやだよ。大統領職をエリツィンから簒奪する直前のスーパー・スパイ・プーチンがKGB内部の癒着など気にするわけがなかった。逆に迷わずリトビネンコ中佐に踏み絵を踏ませる、工作に着手する。 密会からしばらくして事件は起きた。上記、暗殺指令が下った。もちろん中佐は即座に拒否した。そしてルポ(対組織犯罪担当特別捜査チーム)に帰るとメンバーを集めすぐ事態をこう説明した。「いいかみんなよく聞いてくれ。この命令には必ず裏がある、もし、この命令を実行すればすぐ事件は公にされ腐敗堕落した警察官の代表として俺たちは皆殺しにされるだろう」と。みんな文字道理凍りついたそうだ。おそらく、そのとおりだっただろう。元来、この手の極秘特殊工作は第二総局第13課(別名V局)の仕事であり第二総局第7課(ルポの正式名称)の仕事でないのは自明だった。もう時間がなかった。先を取るより生き延びる道はなかった。リトビネンコ中佐はその足でベレゾフスキー社長を訪ね指令を暴露すると記者会見を開くので協力してほしいと頼んだ。社長は一も似もなく賛同し記者を集めた。そして、運命の記者会見は始まった。

{論考が長すぎて10000字以内に収まらなかったので分割、最近、考えたこと。Part0005-3へ続く。}

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