さてと、お約束のロシア・東欧史のまとめ第一弾。まずは現状の確認としてのロシア現代史から始めよう。話は東西冷戦真っ只中の1973年に遡る。この年、今の世界にとって決定的な事件が起った。それは何か?KGB(ソ連国家保安委員会)議長ユーリ・ウラジミロピッチ・アンドロポフがソ連共産党の政治局員に抜擢されたのだ。ふーー。ま、これだけだとなぜこれが決定的な事件なのか多くの人にとってはピンと来ないだろうから、少し、二つの事柄について解説しよう。
まず、ソ連国家保安委員会(KGB)について。この組織を実感として理解するのは正直日本人にとっては途轍もなく困難を伴うと思う。内部に50万の常備軍事力を持ち、裁判所の統制を一切受けない警察組織って意味わかる?おいら正直、想像もできないや。この組織はソ連の実質的な建国者ウラジミール・イリリッチ・ウァリアノフ(レーニン)の「警察力廃止のテーゼ」によって生まれたチェーカー(反革命分子抹殺特別委員会)に由来する。「警察力廃止のテーゼ」とは在野時代のレーニンが唱えた「警察は人民を痛めつけるための〈暴力装置〉だから廃止しなければならない」という主張。革命家は権力を握ると今まで言ってきたこととは180度逆の事を全力で実行する「職業的嘘つき」。このときも当然そうなった。レーニンは一応、警察(ポリツィア)を解体し民兵隊(ミリツィア)に治安権限を委譲したのだが、自分が暗殺未遂事件に合った途端、裁判なしに政敵すべてをその場で抹殺するチェーカー(反革命分子抹殺特別委員会)をユダヤ系ポーランド人ジェルジンスキーに組織させ敵対者を老いも若きも男も女も文字道理皆殺しにした。一見よさげな意見は後で途轍もなく酷い事態を招くという典型だね。「郵便局をモデルに経済を建設しよう」なんて大バカの統治に国民の不満が尽きることはなくその後もむき出しの暴力としか言いようのないチェーカーの国民弾圧はとどまることを知らず、後に「収容所群島」と呼ばれることになる絶滅収容所群(グラーグ)が建設され推定3000万人と呼ばれる人々が虐殺された。70万人が収容され7万人が救出されたアウシュビッツが天国に見えるアルバンチク絶滅収容所を管理していたのはもちろんKGB。90万人が移送され帰ってきたのは3000人、送られたものの平均年齢が23歳で平均寿命が26歳だったそうだ・・・・。ぞーーーーーー。アウシュビッツ帰りは結構いるのにアルバンチク帰りは〈本当に〉絶滅されちゃって見かけないってわけだ。さらに、ぞ、ぞーーーーーー。ナチのSSと違って、チェーカーはチェーカー→GPU(国家政治保安部)→OGPU(合同国家政治保安部)→NKVD(内務人民委員部)→MGB(ソ連国家保安省)→KGB(ソ連国家保安委員会)→FSB(ロシア連邦治安省)と名称変更を繰り返しながら実在の政府機関としてロシアにおいて今も独裁権力を握っている。余りに凄まじい話なんでみんなリアリティが感じられないかもしれないけど、これは紛れもない現実。まずはそこを抑えておいてほしい。
ついで、ソ連共産党について。この「政党」はもともとロシア社会民主党の「ボリショビキ(多数派)」と呼ばれる一弱小派閥に過ぎなかった。なんど選挙をやっても完敗する「多数派」と笑われるていどの存在に過ぎなかったのだが、戦争と革命(内戦)は全てを変えてしまった。第一次世界大戦時、ドイツ参謀本部は行き詰った戦略を打開するために自国を追放されヨーロッパ各地を放浪していたレーニンを封印貨物列車でロシアに送り返した。つまり、レーニンはドイツのスパイ(情報工作員)だったのだ。初期においてレーニンの革命はおそらく活動資金や情報工作を始め全面的にドイツ軍部の支援によって支えられていた。レーニンはまずアナーキスト(つまりヤクザ)にドイツ軍から受け取った武器と金を渡し、政府に対するテロを奨励した。ついで、テロが起こるのは皇帝と政府が無用な戦争を起こしたからだと糾弾し、自分が政権を取れば「パンと平和」を与えようと国民に対してプロパガンダ(政治宣伝)を繰り返した。これが効いた。対独敗戦の連続と戦費調達に伴う重税にあえいでいたロシア国民にとっては実に耳触りのいい主張だった。ロシア社会民主党の一弱小派閥に過ぎなかった「ボリショビキ(多数派)」の支持は劇的に拡大した。しかし、それでも選挙に勝てない。そこでレーニンは議会や地方自治体の機構を一切無視して自分の部下だけで構成される評議会(ソビエト)を各地に作り暴動を起こして、次々と政府機関や企業及び地方自治体を力ずくで乗っ取っていく。革命とは嘘と暴力による「政府・企業の乗っ取り」の事だということが実によくわかる。そして1917年10月、ついに厭戦気分に支配された首都ペテルブルグの軍隊を乗っ取って、皇帝を逮捕、首都を制圧する。そして、評議会(ソビエト)を統治機構としてロシア連邦社会主義共和国を建国し、約束どうり、ブレストリトフスク条約を結びドイツに無条件降伏をする。だが、ここでトラブル発生。なんと、ドイツで革命がおこり、その余波で皇帝が退位し臨時政府が連合国に降伏してしまう。オーストリアハンガリー帝国はルーマニア軍に攻め込まれて四部五列になり、トルコ帝国も革命で戦線離脱、唯一の枢軸国としてロシアは連合国の総攻撃を受けてしまう。「敵に無条件降伏」とは今までの味方を裏切り敵側に寝返ることだからこうなって当たり前。「パンと平和」を約束したレーニンは思いっ切り「飢餓と戦争」を国民に押し付けたわけだ。後先考えない国民に耳触りのいい主張は結果として必ず反転する。それを隠すために革命家には弾圧と独裁が不可欠なんだね。レーニンはドイツの革命政権を乗っ取るためにホーランドに出兵するがワルシャワで大敗。しかし、ドイツとの死闘を制した連合国側が厭戦感情から出兵の継続を望まず自主的に撤兵したために、かろうじて生き延びる事が出来た。そして、このころ、ボリショビキ内部で台頭してきたのが、ロリコンで銀行強盗を生業とするユダヤ系グルジア人のアナーキスト、ヨシフ・ヴィサリオノピッチ・ジュガシビリ(スターリン)だ。この男を一言で表すなら「大虐殺の執行人」というに尽きる。それを正当化する理論はからっきしだが、理論に従って恐るべき残虐行為を徹底的に実行し、それに対して良心の呵責を一切感じずに済む生まれながらの殺人鬼。究極のサイコパス(人格異常者)だね。スターリンはレーニンが病に倒れた(一説ではスターリンに遅効性毒物を投与されたという)のを契機として「書記長(レーニンの副官)」としてボリショビキの全権を握り、ボリショビキをソ連共産党に拡大し、ロシア連邦社会主義共和国を基盤としてソビエト社会主義共和国連邦を建国してゆく。ソ連はスパイが建国し、銀行ギャングが建設した国だったわけだ。ほんと72年間もよく持ったもんだよ。
次に、ソ連共産党のイデオロギー(正統性理論)の構造について。マルクスを基盤としてレーニンが構築しスターリンが世界中に広めたので、一般にマルクス・レーニン・スターリン主義(スターリンの死後はマルクス・レーニン主義)いう。これは実に膨大・複雑なものでそのまま解説すると大百科事典並みの本を書かなきゃいけなくなるので、誤解を恐れずエッセンスのみを示すと、デカルトによる「設計主義」に始まり、ルソーの「ファシズム・アナーキズム社会構築の理論的提示」をへて、百科事典派・啓蒙主義者による「扇動・宣伝」により、ロベスピエールらジャコバン党の「フランス革命・テロリズム」に結実したものを、マルクスが「経済社会学(マルクス経済学)」的に再建し、左翼学者が「アジテーション・プロパガンダ」したものを、レーニン・スターリン等の共産主義者が「ロシア革命・社会的実験(計画経済)」として実践し大破錠したものだ。みたとおり理論構築→拡散・洗脳→実践と大破錠が2回繰り返されてる。世界史レベルでの大きな話だから気付きにくいが、これは「カルト宗教」の典型的な行動パターンに酷似している。実際、ルソーなんかを読むと独裁政党構築理論(社会契約論)を書いているが明らかにカトリック教会(ローマ法王庁)とくにイエズス会をモデルにしている。その最大の特徴は「独裁政党(独裁者)とは<国家の中>ではなく<国家の上>にある」ということ。だから、独裁政党(独裁者)は国家の法律に憲法を含めて一切縛られないし(殺人も強盗も強姦も決して罰せられない!)、独裁政党(独裁者)の命令は常に憲法を含めた法律に優先する(国民がどんな目に合おうと自分たちの利益を無条件で優先する!)。そして、独裁政党の権力は国境さえも簡単に超える。だって、国家の上にあり国家を超越するんだら同然だろ?実際、ソ連共産党は堂々と日本国内に入り込んで国会に議席さえ持ってるじゃないか(ソ連共産党日本支部こと日本共産党)!日本の自民党がアメリカやフランスやロシアに議席持ってるか?これが、自由主義国家の政党と、独裁国家の独裁政党の決定的違いであり、自由主義国家にとって独裁政党を非合法化できる合法的根拠だ。外国の政党に自国を支配されてたまるもんか!
さてと、前振りが長くなってしまったが本題にいこう、1973年に何が起こったのか?それは、実質的なクーデターだったってこと。あまりにもゆっくりしかし確実に起こっていたので、任命したソ連共産党のブレジネフ書記長も当のアンドロポフ政治局員も気付かなかったことだけど。それは「クーデター」だった。自由主義国家の権力は司法・立法・行政の三権分立だか、独裁国家の権力は独裁政党(共産党)・秘密警察(KGB)・私設軍隊(赤軍)の三権分立だ。一般に暴力がすべてに優先する独裁国家では私設軍隊(赤軍)が最強に見られがちだかこれは大きな間違い。議論の余地なく独裁三権のうち最弱なのが赤軍。独裁国家では独裁政党>秘密警察>私設軍隊の順での絶対的ヒエラルキー(階層的秩序)が成り立っており、これが崩れたとき独裁国家は崩壊する。実際、秘密警察は命令に違反した赤軍将兵を任意にいつでも射殺する権限が与えられているし、スターリン時代には名将トカチェフスキー元帥はじめ高級将校のほぼ8割が秘密警察に抹殺されてしまい、ヒットラーが攻め込んできたとき防衛作戦の指揮をとれるやつがほとんどいなかったのでモスクワ近郊まで攻め込まれてしまったぐらいだ。秘密警察の方も初代長官ジェルジンスキーから8代目のヴィクトル・アバクーモフまでの歴代長官は最終的には全て共産党によって処刑・抹殺されているし、1000人単位での秘密警察員の逮捕・抹殺はしょっちゅう起こった。ソ連の秘密警察が年中、名称変更を繰り返したのは秘密警察員の大量逮捕・大量抹殺のたびに新規要員を採用して組織を再建しなければならなかったからだ。しかしなんつーー体制だ!スターリンの死後、秘密警察のボスであるラヴェレンチー・ベリア副首相が混乱に乗じてスターリンの後継者になろうとしたが、あっさり軍部の支持を取り付けた共産党のボス、ニキータ・フルシチョフの逆襲に合って仲間もろともまとめて処刑されている。これ以降、秘密警察のメンバーが共産党の最高幹部である政治局員になるのは禁止されていたのだが、フルチショフの経済失政とブレジネフの腐敗政治のおかげで共産党が弱体化し、まるで押し出されるように秘密警察のメンバーが共産党の中枢機構の中に流入していった。それがアンドロポフであり、ゴルバチョフであり、ルイシコフであり、シュワルナゼだ。スターリン時代だったら全員確実に殺されてる。しかし、小沢一郎がミジンコに見える「なんでも買収せよ!」のブレジネフの腐敗政治下では権力者にとってはとっても都合のいい秘密警察が重宝され、それに軍をぶつけて統制するという独裁権力の基本テーゼが忘れ去られていった。まさにアクトン卿の言う通り「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」を地で行く展開になったわけだ。
1973年に「クーデター」が成功すると後は早かった。アンドロポフ政治局員はさくさく公然・非公然の秘密警察のメンバーを上は最高幹部会の政治局から下は末端の職場細胞にいたるまで配置していき共産党の「乗っ取り」を進めていく。まるでエイリアンだ。気付けば上から下まで共産党はKGBのメンバーだらけになり、1983年ブレジネフ書記長が病死するとアンドロポフ政治局員が書記長に選出され「乗っ取り」を完了する。ベリヤの夢をアンドロポフがかなえたってわけだ。しかし、アンドロポフ書記長が権力を握ったとき、東西冷戦は最終局面を迎えていた。1981年にアメリカでロナルド・レーガン大統領が選出され対ソ強硬外交(ローリングバック・巻き返し政策)に出ていた。太平洋艦隊と欧州正面に攻撃型中距離核ミサイル(パーシンク�驚篤札潺汽ぅ襪肇肇泪曄璽�巡航ミサイル)配備し、ロシア本土を核包囲下に置く政策を進めだす。アンドロポフ政治局員はこれを防ぐため西側の世論分断を計画し大規模な「反核運動」キャンペーンを起こすようKGBに命じるが、SS20弾道ミサイルとバックファイヤー爆撃機によって長年さんざん核恫喝を受けてきた西側諸国首脳は激怒しており、反核運動運動に抗して陸続として中距離核ミサイルを配備し間接核武装へと踏み切る。1983年ドイツ、イタリア、1985年オランダ、ベルキー、と英米独仏加伊と先進七か国は裏切った日本(中曽根内閣)を例外として対ソ核攻撃体制を完成させる。アンドロポフ書記長はロシアがヨーロッパと相打ちになりその後「聖域(核被害のない場所)」となったアメリカから大量報復を受けて自国が壊滅することを恐れ、東欧からの撤退を決断しそのその撤退時期をフランス革命200周年の1989年11月と決める。まず、ワルシャワ条約機構(ロシア支配下の軍事同盟)首脳会議において核兵器の先制不使用を打ち出す。が、ここでトラブル発生、当のアンドロポフ書記長が持病の糖尿病の悪化でポックリ死んでしまう。その後、共産党の巻き返しでブレジネフの秘書チェルネンコが書記長に着くがこれまた1年で病死する。1985年3月、その跡を継いだのがKGBの非公然メンバーの一人ミハイル・セルゲーエヴッチ・ゴルバチョフだった。
ゴルバチョフははっきり書けばKGBのフロント企業ならぬフロント独裁者だった。KGBはマスコミを使いあらんかぎりにゴルバチョフを擁護した。当時、ロシア国内で保守派とはイゴール・リガチョフ政治局員を始めとした共産党直属の人々をいい、改革派とはKGBの非公然メンバーをさした。ゴルバチョフは始めからアンドロポフの計画どうり進むしかなかった。まず、就任から一年後アイスランドのレイキャビクで米ソ首脳会談を行う。この時、ヤルタ協定の即時履行つまり東欧返還を申し出、代わりに攻撃型中距離核ミサイルの撤去を要請したのだろう。表面上は決裂したことになっていたが、この時東西冷戦はロシア側の降伏により西側の勝利が決まった。あとは敗戦処理をどうするかという問題だけが残った。軍事独裁国では「負けた」とは言えないので世界史レベルのプロパガンダが打たれた。それが「ペレストロイカ(改革)」であり「グラスノスチ(情報公開)」であり「東欧の春(東欧民主化)」だった。それはロシアの降伏を隠ぺいするための「壮大な煙幕」であり、同時に西側からの経済技術支援を得るための「巧妙な疑似餌」だった。これをみたアメリカは降伏を確信し翌年1987年攻撃型中距離核ミサイルの撤去を表すIMF(中距離核兵器全廃条約)に踏み切る。ちなみにこの時、ゴルバチョフへのお土産兼裏切った日本への趣意返しとして、中距離核兵器からバックファイヤー爆撃機が除外され2個航空師団140機がヨーロッパ正面から日本の対岸のロシア沿海州へ飛来してるんだけど気にする日本人が誰もいない。。。なんか、日本列島が巨大なボケ病棟に見えてきたよ。とほほ。ま、閑話休題、話を元に戻そう。中距離核ミサイルの撤去が本決まりになると、ロシアは戦線縮小に伴う機構改革に着手まず一年かけて準備をし1988年8月まず、アフガニスタンから撤退する。ついで予定どうり1989年11月東欧から撤退。ソ連軍をバックに圧政をつづけてきた東欧の共産政権はドミノ倒しに壊滅する。しかし、ゴルバチョフはバルト三国の独立運動を抑えられず、機構改革に失敗。KGBはこのままでは最も恐れている(ニュルンベルグ裁判や東京裁判のような)戦犯裁判を避けられないとみてゴルバチョフと共産党の追放を決定する。まず、共産党から真っ先に離党した「酔っ払い」ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンを1989年3月ロシア連邦社会主義共和国の最高会議代議員へ投票操作で当選させる。ついで1990年5月に最高会議議長選出させ、さらに翌年1991年6月、新設のロシア連邦社会主義共和国の初代大統領に選出させる。この間、ポイ捨て予定のゴルバチョフには共産党の自己解体を命じる。ぞーーとする冷酷さだが、ま、KGBの非公然メンバーつまりエージェントになればこのぐらいあるさ。ここでは語らんけど、ホント、こういう例は腐るほどある。スパイとエージェントになるのはやめよう。特にKGBのエージェントになるのは最悪だ!また、脱線した。話を元に戻す。命令を受けたゴルバチョフはまず共産党一党独裁の放棄を宣言、次いで共産党の経済基盤である国営企業の解体を表す市場経済移行宣言を打ち出す。そして、1991年8月あの「8月クーデーター」が起きる。
「8月クーデーター」は一般には保守派つまり共産党が権力維持のために起こした、武力反乱だと言われているがさにあらず。あれは共産党を追放するためにKGBが仕組んだ「やらせ」だった。今考えれば笑っちゃうほどバレバレだよね。ゴルバチョフをとっ捕まえたのにエリツィンが野放しなんてあり?エリツィンを英雄にしたホワイトハウス前の演説なんて手練れのスナイパー1人で防げたでしょ、KGBにはスナイパー1人いなかったの?あのKGBの突入部隊が市民の罵声を浴びてホワイトハウス前から自主的に撤退したって?んなわきゃない!ゴルバチョフもエリツィンもあのクーデーターで自分が死ぬとは全然思っていなかった。悲惨なのはクリュチコフKGB議長に直接脅迫されて反乱者役を押し付けられたヤナーエフ大統領代行や奥さんもろとも射殺されたプーゴ内相の方だよ。事件は計画どうり3日でゴルバチョフ救出を持って終結。事件直後から、KGBの支援を受けたエリツィンは共産党の活動を禁止するための大統領令を次々と発令し共産党の事務所や共産党系メディアをすべて閉鎖に追い込む。共産党は止めを刺され独裁政党としては終焉する。まぬけたクーデター演技と事後の迅速果敢で完璧な共産党解体が全てを物語っている。おそらく、これは世界にKGBの弱体化(民主化)をアピールするプロパガンダを兼ねていたに違いない。なぜなら、共産党とほぼ同時にKGBも表面上は解体されているからだ。しかし、KGBはそんな甘っちょろい代物ではなかった。世界はそれを後にそれを思い知ることになる。
さてと、共産党解体後、KGBの支援を得て権力を握ったエリツィンはその了解のもと二つの政策を実行する。一つはCIS(独立国家共同体)を設立しソ連を解体すること。もう一つはKGBを表面上3つの組織に解体することだ。1991年12月エリツィンはベラルーシーのベロヴェーシの森でウクライナ・ベラルーシーの首脳と会談しCIS(独立国家共同体)の設立を宣言する。追い詰められたゴルバチョフは12月25日にソ連大統領を辞任、エリツィンがクレムリンに入りソ連が崩壊した。目的は3つあった。一つはあまりにも抵抗が強いバルト三国をロシアの体制から平和裏に切り離す事。もう一つは、遅れに遅れた技術水準、特にエレクトロニクスと資源開発技術(石油の掘削技術)を西側から導入するためには共産党が作った無機的なソ連体制が邪魔だったことだ。最後が各国に残った共産党が連合してソ連体制の機構を使ってKGBに逆襲をかけてくる可能性を潰す事だっただろう。ソ連の体制がなくなれは各国共産党はそれぞれの国の国内政党として生きるしかない。同時にKGBの解体による弱体化(民主化)をデモンストレーションする意味もあったに違いない。KGBの解体は一般的にはエリッィンの保安機関民主化の一環として行われたように考えられているが大間違い、完全に自主的なKGBの機構変更だった。KGBは第一総局(対外諜報工作局)をSVR(ロシア対外諜報局)、第二総局(国内諜報・工作局)と第三総局(軍監視・核兵器管理局)をFSB(ロシア連邦治安省)に名称変更し、その他の部門をGUO(ロシア大統領護衛総局)を中枢として大統領府の機構の中に組み込んでいった。まるでカメレオンだ。SVRはCIA、FSBはFBI、GUOはSS(シークレットサービス)とアメリカそっくりに表面上仕切りなおされた。世界は騙された。当然、おいらも騙された。実はこの時期、KGBは弱体化などしておらず、機構も人員も2倍ぐらいに増強されていた。そして、なによりKGB各局に対する人事権が大統領にはなかった。KGBはロシア政府内のアンタッチャブルとして「地下政府」の要領で政府全体をコントロールした。いわゆる隠語「シロビキ(武闘派)」の誕生だ。
ソ連解体に伴い、国際安全保障上の問題となったのが「ソ連の核」問題。核不拡散防止条約上の核保有権はソ連からロシア連邦に引き継がれたが、残りの14共和国にも大量の核兵器が残った。12共和国は戦術核だったのでロシア軍が接収することにより解決した。問題はウクライナとカザフスタンの戦略核兵器だった。ウクライナには5000発、カザフスタンには1500発の戦術・戦略核兵器がのこった。カザフスタンはロシアがナザルバエフ大統領の独裁権力を保証するすることによってあっさり解決した。しかし、問題はウクライナだった。5000発の核兵器を持ち80万の常備軍を持つ独立ウクライナはロシアといえども迂闊に手を出せる相手ではなかった。さりとて、カザフスタン方式にクチマ大統領に独裁政を保証しても、クチマ大統領やその後継者が親ロであり続ける保証などなかった。ウクライナはカザフスタンと違いヨーロッパ本土と地続きだった。そこで「騙す」ことにした。もともとウクライナ人は芸術と文学をこよなく愛するおとなしい民族だったのでソ連式の重武装を好まなかった。「ウクライナの独立と領土保全」をイギリスとアメリカとロシアが保証することを条件に核兵器をロシアに引き渡す国際協定に同意した。これが1994年のブダペスト・メモランダム。ウクライナは誠実に約束を実行した。しかし・・・・。ま、これはまた後で語ろう。
{論考が長すぎて10000字以内に収まらなかったので分割、最近、考えたこと。Part0005-2へ続く。}
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