日本の解剖学の扉を開いた山脇東洋――六角牢獄跡に残る医学史の石標
京都の街を歩いていると、現在の町並みからは想像もできないような歴史が、一本の石標によって伝えられていることがあります。
その一つが、山脇東洋が人体解剖を行った「六角牢獄跡」を示す石標です。
今から270年以上前、この地で一人の医師が実際の人体を観察し、その経験を記録に残しました。それは、日本の医学史において大きな意味を持つ出来事でした。
医師・山脇東洋
山脇東洋は、1705年に生まれ、1762年に没した江戸時代中期の医師です。
医学を山脇玄修に学び、その後、その養子となりました。
当時の医学では、人体の構造について、古くから伝えられてきた医学書などの知識が重要な位置を占めていました。
しかし、実際の人体がどのような構造になっているのかを、自分の目で確かめることは容易ではありませんでした。
そうした時代に、山脇東洋は実地に人体を観察するという方法に踏み出します。
六角牢獄で行われた人体解剖
宝暦4(1754)年、山脇東洋はこの地にあった六角牢獄で、刑死した男性の遺体を解剖しました。
そして、実際の人体を観察することによって、その構造を確認しました。
これは、当時の日本の医学において画期的な試みでした。
医学書に記された知識をそのまま受け入れるだけではなく、実際の人体を自分の目で観察し、確かめる。
現在では医学教育の基本ともいえるこうした姿勢ですが、江戸時代中期の日本においては、大きな一歩だったのです。
解剖の記録『臓志』
山脇東洋は、このとき行った解剖の結果を記録としてまとめました。
それが『臓志』です。
実際の人体を解剖して観察した内容を記録した『臓志』は、日本の解剖学史を考えるうえで重要な書物とされています。
人体の内部を実際に観察することで、それまでの医学知識との違いを確かめようとした山脇東洋。
その記録は、後の日本の医学の発展にもつながっていくことになります。
『解体新書』より17年前の出来事
日本の近代医学史を語る際、杉田玄白らによる『解体新書』がよく知られています。
『解体新書』が刊行されたのは1774年。
一方、山脇東洋が六角牢獄で解剖を行ったのは1754年です。
その差は20年あります。
そして、山脇東洋の解剖は、杉田玄白の『解体新書』につながる動きに先立つ重要な出来事でした。
つまり、山脇東洋は、江戸時代の日本において、人体を実際に観察する医学への道を切り開いた人物の一人だったのです。
一つの解剖から始まる医学の歴史
医学の進歩は、一人の人物だけによって成し遂げられるものではありません。
しかし、山脇東洋が行った人体解剖は、日本の医学が「実際に観察し、確かめる」という方向へ進んでいくうえで、重要な意味を持つ出来事でした。
目の前にある人体を観察し、その結果を記録する。
この姿勢は、医学を経験と検証に基づく学問へと発展させていくうえで欠かせないものです。
『臓志』という記録が残されたことによって、1754年にこの場所で行われた解剖の意義は、現代にも伝えられています。
六角牢獄跡を示す石標
現在、六角牢獄そのものを見ることはできません。
しかし、その跡地には山脇東洋が解剖を行った場所であることを伝える石標が残されています。
京都の街中に立つ一つの石標。
そこから、江戸時代中期の医学、山脇東洋の挑戦、そして日本の解剖学の歩みへと歴史をたどることができます。
普段何気なく歩いている京都の町も、こうした史跡を知ることで、まったく違った姿に見えてきます。
京都に残る日本医学史の一頁
宝暦4(1754)年、六角牢獄で行われた山脇東洋の解剖。
その成果は『臓志』として記録され、日本の医学史に刻まれました。
後に杉田玄白らによる『解体新書』が登場し、日本の解剖学はさらに大きく発展していきます。
その先駆けとなった山脇東洋の足跡を、現在の京都の街角で感じることができるのです。
六角牢獄跡の石標は、単なる場所を示す標識ではありません。
それは、江戸時代の医師が「実際に見て、確かめる」ことに挑んだ証であり、日本医学が新たな一歩を踏み出した場所を、今日に伝える貴重な歴史の証人なのです。
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