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2026年06月08日23:04

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京の碑めぐり:橘逸勢邸址

三筆の一人・橘逸勢の足跡をたどる――*松殿跡を訪ねて
京都の街には、平安時代の文化を彩った人々の足跡が数多く残されています。今回紹介するのは、平安初期を代表する能書家・橘逸勢(たちばなのはやなり)の邸宅跡を示す石標です。

この地には、平安京左京三条二坊十一町にあった「*松殿(はいまつどの)」と呼ばれる橘逸勢の邸宅が存在していました。現在はその姿を見ることはできませんが、石標が往時の歴史を静かに伝えています。

遣唐使として海を渡った才人
橘逸勢(?〜842)は、平安時代前期を代表する文化人の一人です。

延暦23年(804)、留学生として遣唐使船に乗り、中国・唐へ渡りました。この遣唐使には、後に真言宗を開く空海や天台宗を開く最澄も参加しており、日本文化史において極めて重要な使節団として知られています。

逸勢は大同元年(806)に帰国し、その優れた学識と書の才能によって朝廷で活躍しました。その書風は高く評価され、「橘秀才」と称えられるほどでした。

日本書道史に輝く「三筆」
橘逸勢は、空海、嵯峨天皇とともに「三筆」に数えられています。

三筆とは、平安初期に活躍した日本最高峰の書の名手たちを指します。特に逸勢の書は流麗で格調高いと評され、後世の書道文化に大きな影響を与えました。

現代においても、日本書道史を語るうえで欠かすことのできない存在です。

承和の変に翻弄された晩年
しかし、その人生は決して平穏なものではありませんでした。

承和9年(842)に発生した「承和の変」に連座し、無実ともいわれる中で流罪を命じられます。朝廷内の権力闘争に巻き込まれた逸勢は、伊豆国への配流が決定されました。

ところが、配流先へ向かう途中の遠江国で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となります。

才能に恵まれながらも、政治の波に翻弄された悲劇的な最期でした。

御霊信仰と橘逸勢社
当時の人々は、非業の死を遂げた人物の怨霊を恐れ、その魂を鎮めるために祀ることがありました。

橘逸勢もまた御霊として信仰され、かつての邸宅跡には「橘逸勢社」が建立されたと伝えられています。しかし、その社は後に焼失し、現在は残されていません。

それでも、この地には石標が建てられ、逸勢ゆかりの場所であったことを今に伝えています。

京都に残る文化人の記憶
橘逸勢は、書の名手としてだけでなく、唐の文化を学び日本へ伝えた国際的な知識人でもありました。その一方で、政治的事件によって悲劇的な運命をたどった人物でもあります。

石標の前に立つと、華やかな平安文化の陰にあった人々の栄光と苦悩が感じられます。

京都の歴史散策では寺社や御所に注目しがちですが、このような史跡を訪れることで、平安京に生きた一人ひとりの人生にも触れることができます。

*松殿跡は、三筆の一人・橘逸勢の功績と波乱の生涯を今に伝える、貴重な歴史の証人なのです。
詳細はこちらへ
https://ameblo.jp/stephen19690326/entry-12968780646.html
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