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2026年05月10日18:16

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あなたの知らない士官学校の世界

西 きほこ

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先月ベトナム旅行に行ってきた。
長年使っているスキンケア会社からの無料ご招待旅行だった(ちなみに前回の無料旅行はケーキ屋さんの懸賞)。
無料ご招待・・・その響きに憧れやいいなと思う方も多いと思う。
しかし私は知っている、タダほど怖いものはないのだと。
なぜご招待されるのか?
ご招待しなければならないほど「何か」があるってこと。

案の定、ダナンの空港に着くと前回17年前の続きの任務が待っていた。
そして今回、日本までついて来た二人の日本兵。
ご本人たち(幽霊)から聞いた内容は、歴史的にも国家的にもかなりセンシティブで、そのままSNSに書くと問題になりかねないものを含んでいた。
そのため、身元や立場は伏せ、ここでは「士官Aさん」「士官Bさん」と呼ぶことにする。

戦後80年。
日本ではすでに過去の歴史となっている『太平洋戦争』。
そこで戦没した彼ら。
ところが、なんだか話がかみ合わない。
「太平洋戦争?それは何かね?」そんな反応なのである。
お互い頭の上に「?」が浮かんでいるような状態だった。
そこでわかったのが、彼らが戦ったのはあくまでも『大東亜戦争』なのだ。
戦後にGHQにより「太平洋戦争」という呼称があとになって作られたのだ。
つまり彼らからすれば、死んだ後に戦争の名前が変わっていたのである。
話が噛み合わないのも当然だ。
さらに驚いたのは、戦没者側の感覚では、この戦争が「まだ終わっていない状態」で続いていることだった。
それを聞いて、多くの人が思い出すのが、小野田寛郎少尉の話だろう。
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終戦後もフィリピン・ルバング島で約30年間、戦争が続いていると信じ、潜伏と戦闘を続けていた元陸軍少尉・小野田寛郎。
1974年、かつての上官から正式な任務解除命令を受け、3月12日に投降・帰国した。
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当時は30年も?!と日本中が驚いた。
だが、私の目の前に現れた英霊は80年経ってもなお戦い、任務を遂行中のように見える。
彼らは最初に自分たちの名前を名乗ったので、どの戦没者なのかは判明した。
すると夫が気を利かせて、昭和44年発行の『陸軍士官学校』という資料を入手してきてくれた。
これは、昭和20年までに在籍していた数万人分の卒業生・在籍者の名前が掲載された名簿である。
そして実際に確認してみると、そこに、士官Aさんと士官Bさん、二人の名前が実際に記載されていた。
彼らはその後も、しばし懐かしそうに名簿に釘付けになっていた。

その中で私が驚いたのは「外国留学生」の項目だ。
明治初期、日本がフランスなどへ多くの留学生を送り、海外の戦術や軍事制度を学んでいたことは、歴史小説などでなんとなく知っていた。
その留学生は卒業後、重要な地位を占め士官教育や軍の発展に大きな影響を与えていった。
そのようにして日本の陸軍士官学校が明治10年に開校された。
記録によると、明治29年〜孫文革命が起こるまでの12年間、韓国人41名、清国人(現在の中国人)650名が日本で軍事を学んだとあるのだ。
この事実に私はかなり驚いた。

国が留学させるくらいの人材なので、相当優秀で未来有望な人たち。
日清戦争後に、清国の留学生を大量に受け入れ、日本人と分け隔てなく教育を惜しみなく提供したとういう事実。
なんと理想高くかつ寛大なのだろう。
明治44年には中国大陸で混乱が起きたので、留学生たちは急いで帰国を余儀なくされ、留学はいったんここで断ち切れとなる。
そして、明治43年には韓国は日本と合併されたので、韓国学生制度は廃止されここでも韓国人は分け隔てなく日本の士官候補生と「同じ」にされている。
大正3年には支那学生(現在の中国人)が再び60名入学し、昭和20年まで継続して中国人の留学生も「同期意識」を持って毎年入校し教育を受けていたという事実。

さらに昭和7年シャム国(現在のタイ)から。
昭和18年以降になるとビルマ(現在のミャンマー)、フィリピン、インド、中華人民共和国から、沢山の留学生を受け入れて、日本人士官生徒たちとともに寝食を共にして学んだ。当然心を通わせたことだろう。
皇族舎もあり、日本の宮家の方々も多く学んでいた。
そこには、李氏朝鮮第26代国王・高宗のひ孫である 李鍵 の名前も、留学生として記載されていた。
そして第49期の欄には、あの 東久邇宮稔彦王の名前もあった。

つまり、ここから見えてくるのは、当時の日本が掲げていた目的が、大きく二つあったということ。
一つは、米・英・蘭による経済封鎖から日本を守り、東南アジアの資源を確保するという「自存自衛」。
もう一つは、欧米列強の植民地支配からアジア諸国を解放し、日本主導で共存共栄の圏を築こうとした「大東亜共栄圏構想」である。
2人の士官は今もなお、そうした理念を本気で信じ、命を懸けてきたのだ。
そして、2人の士官がいよいよ動き出した。
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