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2026年03月09日10:59

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京の碑めぐり: 直江兼続上杉景勝屋敷跡

平安京から戦国の記憶へ――上杉景勝・直江兼続屋敷推定地の石標
京都市上京区椹木町通葭屋町東入に、歴史の重なりを静かに伝える石標があります。2009年5月、NPO法人京都歴史地理同考会によって建立されたこの碑は、戦国時代の武将ゆかりの地と、さらに遡る平安京の歴史を同時に示す興味深い史跡です。

石標の北面には、この地の南側が「聚楽城の武家地」であり、戦国武将・直江兼続の屋敷推定地であることが刻まれています。西面には、北側が同じく聚楽城の武家地で、上杉景勝の屋敷推定地であると記されています。

この地域は、豊臣政権の中心的施設であった聚楽第の周辺に広がる大名屋敷地の一角でした。天下統一を進めた豊臣秀吉は、京都を近世都市として再整備し、聚楽第の周囲に諸大名の屋敷を配置しました。その中に、上杉景勝とその重臣直江兼続の屋敷もあったと考えられています。

直江兼続は上杉家の家臣でありながら、秀吉から豊臣姓を賜るなど特別に厚遇された人物でした。史料『上杉年譜』によると、天正17年(1589)には出羽の大名・大宝寺千勝丸(後の義勝)が上洛した際、兼続の京都屋敷を宿として利用したと記されています。これにより、京都市中に直江兼続の屋敷が存在したことは確実とされています。

その正確な位置は長らく不明でしたが、江戸時代中期の地誌『京町鑑』では、この地の南隣の「直家町」が直江屋敷跡と伝えています。また江戸初期の「京都図屏風」では、この町名が「なおい町」と描かれており、兼続(直江)との関係を想像させます。

一方、上杉景勝の屋敷についても興味深い推定があります。別の史料によると、同時期に聚楽第の南東方向には毛利輝元・宇喜多秀家らの屋敷が並んでいました。現在の町名「浮田町」や「森中町」がそれぞれ宇喜多・毛利の名残と考えられるため、その東隣にあたる「長尾町」(上杉氏の旧姓)が景勝屋敷跡ではないかと推定されています。こうして見ると、景勝屋敷と兼続屋敷が近接していた可能性も浮かび上がります。

さらに、この地の歴史は戦国時代だけにとどまりません。石標の東面には、ここが平安京の「左京二条二坊八町」にあたり、皇太子の事務を担う役所・春宮坊の役人が住んだ「東宮町」の跡であることも記されています。平安後期には、官人の家族が暮らしていた記録も残っています。

つまりこの場所は、平安時代には皇太子を支える官人の町であり、戦国時代には天下統一を進める豊臣政権の大名屋敷地へと変貌した、まさに京都の歴史の層を体現する場所なのです。

高さ約110センチの小さな石標ですが、その背後には千年以上にわたる京都の都市史が隠されています。京都を歩く際には、こうした石標にも目を向けてみてください。何気ない街角が、歴史の舞台だったことに気づかされるはずです。

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https://ameblo.jp/stephen19690326/entry-12959043032.html
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