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2025年07月17日22:31

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人の描いた絵に魅力を感じ、AI絵に魅力を感じない現象について

 私はAI絵に一切の魅力を感じない。AI絵を人の絵だと勘違いした時には魅力を感じるのに、それが実はAI絵だとわかった瞬間、一気に冷めるし萎えるし魅力を感じなくなる。

 それはいったいなぜなのだろうか、人が描いたと勘違いしていれば魅力的に感じるということは、本質はイラストの外にあるのだと思う。

 このことについて考えてみたきっかけはTwitterで下記のツイートを見かけたからだ。

https://x.com/1041uuu/status/1944377014934507637

 要約すると、「”AI絵より人が描いた拙い絵の方が魅力的”というのは創作行為の核心に触れるものであるが、それを説明するにはややこしい言葉遣いになってしまう」というものだ。

 このツイートへの反論として、「AI絵よりも下手な絵に対する憐れみ、要は下手な絵の分類の中では良いと感じているだけ」「”手紙を書くのにパソコンではなく手書きの方が温かみがあって感情が伝わる”と言っているのと同じ」「人の絵の方が魅力的ならAI絵は問題視されない」「飽くまでもAI絵という概念が生まれたことにより、手書きという部分に価値が生まれただけ。AI絵の存在しない昔だったら価値など見出されなかった」などがあった。

 私はそのどれもに対して反論があるのだが、その反論について考えてみた時に思い浮かんだのが”進撃の巨人”の存在だった。
 進撃の巨人は、終盤こそ結構上手いを描けるようになっていたものの初期はお世辞にも上手い絵とは言えない拙い画力だった。じゃあ進撃の巨人の作画を全てAIに描かせていたらもっと良い作品になっていたか? と言われたら私は全くそうは思わない。
 進撃の巨人は”あの作画”が良いんだ。絵は下手でも”あの人が描いたあの絵”だからこそ魅力を感じ、漫画として読んでいて面白いと思えたんだ。それがただ技術力が高いだけのAI絵だったら全く魅力を感じない⋯⋯というより魅力を引き出せていなかっただろう。
 じゃあ画力がクソ高い作画家である村田雄介氏や小畑健氏などに描かせていたらもっと良い作品になっていたか? それもまた違う。進撃の巨人は諫山創先生本人の絵だからこそ、作品の魅力を表現できたと断言できる。
 ただ村田雄介氏や小畑健氏を絵が上手いだけと言いたいわけじゃない。この二人の絵にはそれぞれの魅力があるし、好きだからこそ例に出した。


 私はいろいろ思考を巡らせた。
 創作というのは作者と読者の間接的コミュニケーションなんだ。作者との対話であり、好きなものの共有なんだ。
 そして創作とはしばしば「公開オナニー」と揶揄されるが、私はまさしくその通りだと思う。この世のほとんどの創作は作者の妄想垂れ流し公開オナニーだ。
 我々はわざわざ好き好んで金を払って作者の公開オナニー会に参加している。情熱的な公開オナニーは、見ているこちら側の心にまで火を付けてくれる。だからこそそれらを産み出している人間が必要なのである。
 けれどAIにはそれらを満たすことができない。なぜならAIは人ではないし、公開オナニーの概念も存在しないからだ。

 例えばの話だ。デトロイトというゲームがあるが、これは人と遜色ない高性能なアンドロイドが、半ば人間の奴隷として扱われている社会が舞台となっている。作中で一人のアンドロイドが画家に指示されて絵を描くシーンがある。最初に描いた絵は「現実の完璧な模写だ」と言われるが、その後その画家のアドバイスにより自分なりに感じ思い描いたことを絵にしてみたら、画家に「素晴らしい」と評価された。
 要は現在のAI絵は前者「完璧な模写」でしかないのだ。人間は今まで見てきた絵の中から自分に刺さったものに影響を受け、個として確立されていく。一方AI絵は、ただ今まで食ってきた絵の中から、命令された通りにツギハギして映した画像でしかない。AIの性能がもっと向上し、シンギュラリティ⋯⋯一人の人間として自立するほどまでに達してやっと後者となるだろう。

 別に私はAIを完全否定しているわけではない。飽くまでも現状のAI絵に不満を抱いているだけなのだ。
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