カオス、フラクタル、セル・オートマトンの縁などの現象はそれ自体、非常に興味深く、現在も研究が進められています。しかし、複雑系の科学が目指している目標がここにあるわけではありません。敵の本陣は誰が何と言おうと、人類最大の謎である生命であり、そして、その生命がつくり出した人間の社会、歴史、経済なのです。
敵の本陣に斬り込む前に、近代のパラダイムが生命に対して果敢な突撃を敢行し、あえなく敗れていったさまを振り返ってみると、1944年、ナチス・ドイツの迫害を逃れてアイルランドのダブリンに隠棲していたエルヴィン・シュレーディンガー(1887〜1961、1933年にノーベル物理学賞受賞)が「生命とは何か」という小冊子を出版します。
シュレーディンガーは遺伝子に注目しました。親から受け継がれる小さな遺伝子の中に生物が必要とするすべての情報が含まれています。そのような情報を内包する安定的な物質は分子に違いない、とシュレーディンガーは予言しました。
また、情報を保存するためにはその分子を構成する原子は非周期的に並んでいる必要がある、と付言しました。つまり、遺伝子は非周期的な巨大分子だ、というのです。遺伝子の中には生物が必要とするすべての情報が含まれています。つまり遺伝子こそが生命の本質であり、遺伝子を解明すれば生命の謎はあきらかになる、と考えたのです。
シュレーディンガー方程式の完成によって、すでにシュレーディンガーは物理学界の大御所となっていました。そのシュレーディンガーが書いたこの小冊子は多くの若い研究者を動かしました。とりわけ、かなりの数の物理学徒が生物学の門を叩くことになったのです。
人間の体内にある巨大分子は脂質、炭水化物、タンパク質、核酸の4種類に分類されます。このうち、脂質と炭水化物は、非周期的、という条件に反します。タンパク質は20種類のアミノ酸が一列に並んだ巨大分子です。タンパク質は合成されると同時に分子内部の力のために極端にねじれていき、独特の形になります。この形が重要なのだといいます。
レゴブロックのように、ぴったりと合う他のタンパク質とくっついたり離れたりしながら、タンパク質は肉体の構成要素である巨大な構造物になったり、物質を輸送したり、信号を伝達したり、有害な細菌などに対抗する抗体となるなどの働きを担うのです。
とくに生物にとって重要なのは、その独特な形によって他の物質を誘導し、その化学反応の速度を調整する触媒としての働きです。アミノ酸は理論上いくらでもつないでいくことができるので、無限の種類のタンパク質が存在することになります。
しかし現在の科学では、どのアミノ酸がどのような順序でつながったかがわかっても、そのタンパク質の形を予想することはできません。タンパク質内部の微妙な分子内の力の関係は、スーパーコンピュータでも計算しつくすことはできないのです。つまり、アミノ酸の配列がわかっても、そのタンパク質がどのように働くのかはわからないのです。
もうひとつの巨大分子である核酸は、DNAとRNAの総称です。DNAは、シトシン (C)、チミン(T)、アデニン(A)、グアニン (G)という4種のヌクレオチドが並んだ巨大分子で、RNAはチミン (T)の代わりをウラシル(U)がつとめる以外はほとんどDNAと同じ構造をしています。
アミノ酸という要素が一列に並んだタンパク質と同じように、核酸はヌクレオチドという要素が並んだ巨大分子なのですが、核酸にはタンパク質のような決まった形というものはないのです。分子レベルでは、その形が機能を決定します。 決まった形のない核酸は、いったい何のために体の中に存在するのか、わかっていなかったのです。
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