“人生100年”は困難…長寿の限界か、平均寿命伸び悩む
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こういう話が話題になるといつも思うことがある。
医療技術の発達で死ななくてもいい人が助かるのともう十分生きた人が技術的な延命で生き続けることとは別のことだと思う。これは自分自身に当てはめた時の話でもあるが、管につながれて人工呼吸器無しで生きられないことを果たして「生きる」というのだろうか?
もしそれが生きるということに当てはまらないとして生命維持装置の電源を切ることが「犯罪」として場合、医者の言うことを聞かずに、あるいは、暴飲暴食を若い頃から続けるということは長い目で見た「自死行為」とは言えないのだろうか?
そうなってくると尊厳死の意味や生きることそのものにも関わる話になってくる。
最近ではもう少し安楽死ということについて緩くなってきていると思うが、100歳にもなって栄養剤を点滴されないと生きていけない人を生きていると呼び、本来助けるべき人が助からないようではいけないのではないか?と思う。遺書を残すのも犯罪に手口が使われそうなので、生きているうちにビデオメッセージを残すとか、脅迫もなく、自分の意志でもし寝たきりになったら安楽死を選ぶということはあってもいいのではないか?と思う。
自分に当てはめてみた場合、生命維持がされているので生きているが毎日、天井しか眺めず、呼吸すら自分で出来ない。それで生きているのはある意味拷問だと思う。
一方でウチのオヤジなどはそろそろ酒は止めた方がいいと医者に言われていたにもかかわらず飲み続けて、結局、肝硬変からの肝臓がんで死んだ。これはもう症例が積み重なっており、こういう人がどういうプロセスで死んでいくのかは分かっているので、酒を止めた方が良いと言われた時点で止めないのはもう死に向かって突き進むしかなく、それはある意味「自死」だろう。そういった「緩やかな自死」と「尊厳ある死」に何の違いがあるのだろうか?
尊厳ある死を迎えたいのに出来ない現状と続けていたら死ぬことが分かっているのに続ける死は仕方ないと片づけられる。ウチのオヤジの場合は死の数週間前から昏睡状態になり肝機能が機能しなくなり血液のめぐりが悪くなり、食道の欠陥に負担が掛かり食道静脈瘤の破裂で失血死するのが定番のプロセスのようだ。
この場合、向きが悪いとそこらじゅうが血に染まる見た目的には壮絶な最後となるらしいが(ウチのオヤジはそうはならなかったが)本人は昏睡状態のまま死ぬので苦しむこともなく逝く。医者の言うことを聞かずに死ぬ人の最後は自然にそうなるからいいのか?
何だか納得がいかない。それならもう自分が高齢者になった時、医者にも行かず、人の言うことも聞かず、病気が進行し死んだ方がよほど自分らしい最期を迎えられる気がする。
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