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2024年06月01日08:45

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ヨーロッパ諸国の世界政策

ヨーロッパ諸国の世界政策が開始して最初に登場して来たのはラテン民族・ポルトガル・スペインで、遅れて立ち上って来たのがオランダ・英国です。英国は先づスペインの無敵艦隊を叩きつけオランダを屈服させ、世界政策に非常に良い位置を占めましたが、この時フランスが登場して来ました。

フランスと英国とは世界政策のために正面衝突の運命に陥ったのです。元来の英国の政策というものは、巧みに外国の力を利用することであり、フランスとの戦争にも特に当時のドイツが英国に巧みに利用せられたのです。

例えば学者は、カナダの運命というものはプロイセンの兵によって、決せられたといっています。実に英国は七年戦争の間にうまくドイツを混乱に陥れて、その間にカナダを取ってしまったのです。

かくの如く英国がヨーロッパの諸国に巧妙に働きかけてフランスの邪魔をしましたから、ナポレオンの対英戦争というものは英国の司令部に対してだけでなくヨーロッパ全部を敵にして戦わねばならなくなり、戦争のスケールが従って非常に大きくなったのです。

フランス革命が始り、数年後に大陸の諸国に遅れて英国はフランスと戦争状態に入り、十八世紀の末から、十九世紀のはじめに一番大きな問題であった世界争覇戦という決戦の火蓋を切ったのです。革命政府の英国に対する戦争方略と、ナポレオンの採った戦争方略とは大体同じであり、大きくみれば三つです。

第一は、英国の殖民地を奪取すること。
第二は、直接英国に侵入し、英国を軍事的に屈服せしめること。
第三は、経済戦であり、謂うところの大陸封鎖であります。

この三つの方法をナポレオンも踏襲したので、1796年と1797年のイタリア並にオーストリアに対する戦争によって、ナポレオンは一躍フランスの支配的地位に立つことになり、自然英国に対する戦争の首脳的地位に押出されて来たのです。

それでナポレオンは、政略的事情もありましたが、最初に先づエジプト遠征ということを考えました。革命政府もナポレオンのフランスに於ける存在を嫌った点もありました。またナポレオンとしましても仔細に英仏海峡を視察して英国侵入に就いての研究をした結果、これは差当り実行出来ないということをみたのです。

それでは英国の殖民地を奪取し、それを混乱に陥れようという方策をその一つとしてエジプト遠征を提案し実行したのであります。エジプト遠征の目的は何であったかということは歴史的にみて非常に大きな問題ですが、ナポレオンは大体二つのことを頭に画いておったのではないかと思います。

即ち巧みにエジプトに行きこれを取って英本国に大衝動を与え、反面フランス国民の精神を昂揚してその勢を駆って英国に侵入しようという考えを持っていたのだと思います。併し当時のナポレオンは申すまでもなく統領でもありません。

差当り満州事変の本庄大将というところで、人気のあった大将に過ぎない。そう思い通りなことも出来ませんから、情勢によってはエジプトからインドまでも攻め入って自分の名誉心を満足さすと共に英国を屈服させる大きな動機にしようというような気持を持って遠征したのではないかと想像します。

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