今日は、コメント記事続きとしてツイート代わりに[不定期連載]「そして雑記」を書く。その24、「昭和前期」の話が出たので少しその事について書いておく、
昭和期は1950年で2分される
、なぜなら1950年以前は元来は「大正」に属する"時代"だからだ。1951〜1988年までの「38年間」が本当の意味での「昭和時代」。
あまりにも早過ぎる「大正帝」の崩御が日本の時代区分を歪めてしまった(-_-;)。
それが「昭和大帝の悲劇」の源泉だった、摂政宮に御着きになられた1921年以来実態的に「二つの御代」に君臨なさり、まったく違う「御代」をお導きなされざろう得なかった事が「悲劇」なのさ。唯てさえ「明治憲法」は「天皇・皇室」にあまりにも多くの「責任」を負わせ過ぎた(-_-#)、
「輔弼の任」を負うものがあまりにも少な過ぎた(怒)、解体過程の「公家」と死にぞこない「元老」だけしかいなかった(-_-#)。
軍も政府も議会も「頼りになんない」(怒)、大学・報道は「積極的に裏切る」(怒)、国民は自分の"生き死に"さえ碌に判断しない「パーばっかし」(怒)、昭和大帝は絶望的な「裏切りの季節」を必死にハンドリングしようとしたが
「情報機関」が全部裏切ってんだから油圧のない「操縦桿」操作みたいなもんだった(怒)。
時代は「ダッチロール」し(怒)、打つ手、打つ手は全部「裏目」に出て(ToT)、「軍事叛乱」が文字どうり「頻発」した(怒)、以前も書いたが、「昭和大帝」は人員が減る一方の
「元老制度」を解体し、「重臣制度」をお創りになられたがこれが決定的に"機能"しなかった(-_-#)
つーか、カメレオンの様な擬態の名人「近衛文麿」に「乗っ取ら」れて完全無欠に「逆用」された(怒)。「元老制度」は江戸期「老中制度」の後継機関で「皇室と内閣」の調整機関、だったが、「重臣制度」は「皇室と議会」の調整を期待されて造られた機関だった「議院内閣制」下では議会との調整は内閣との調整になる筈だったからさ、それが決定的過ちだった、ここに
日本を滅ぼした最悪の敵「民意」が国史に登場したわけだ(黒笑)。
ここを逆手に取られれば、独裁政党で「民意」を掌握する「最悪手」大政翼賛会創設が「肯定」されてしまうではないか(-_-#)。擬態の名人「近衛文麿」はここを突いて「昭和大帝」を騙し「最悪手」を飲ませた(怒)。あとは「コントロール不能」で外国からラジコン操縦されて、破滅的な「4正面作戦」に日本帝国は追い込まれていった(-_-#)。
「議院内閣制」導入を"検討"無しで「先」に決めた事が全ての過ちの源泉だった(怒)。
大正時代、「議院内閣制」導入の是非と効用を徹底的に「議論」し、日本の「國體」に適応可能かどうか、適応するとすればどう「運用」すべきか徹底的に「議論」し明らかにして置くべきだった(-_-#)。
おまけにみくしー検索かけてみました。
「昭和」
日記 検索411件ひっと。
「大正」
日記 検索105件ひっと。
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