朝、5時から一番風呂に入って、7時から朝食を食べました。その後は、お土産を購入してから、貸し切りバスで鷲羽山展望台に向かいました。瀬戸中央道を南下し、児島ICでおりて、瀬戸内海沿いのボートレース児島を過ぎて、標高133mの鷲羽山を登っていき、鷲羽山第二展望台駐車場に向かいました。
広大でした。突然、日が差してきました。ほとんどの人は駐車場端から瀬戸内海を眺めていましたが、私は展望台へ階段で上がりました。少し上がると、上にも15台ほど停められる障害者用のスペースがありました。穏やかな瀬戸内海と島々、瀬戸大橋、遠くにうっすらと四国、天気もよくなり絶景です。
瀬戸大橋は児島と坂出を10の橋 12.3kmで結んでいます。瀬戸大橋を見ていると橋の下の部分を電車が走っていきました。慌ててスマホで撮影しました。全景は見られませんが、この展望台は素晴らしかったです。いろんな船も行き交い、いつまでも眺めていられました。日本有数の絶景だと思います。
次に倉敷美観地区に向かいました。美観地区はレトロな雰囲気のお土産やお茶屋が並んでいます。本町の方まで昔ながらの街並みが続いていて、いろんなお店があります。倉敷川の方へ高砂橋ここから見る倉敷川畔が定番で、倉敷川の運河沿いに江戸時代の天領として物資輸送中継地で栄えた街並みができています。
白漆喰の塗屋造りの町家や土蔵造りの蔵や店、柳並木、運河を行き交う川舟、歴史的風情溢れます。午後になると更に混み合うので、午前中にきてよかったです。昔の蔵や家は、いろんなお土産屋、店舗、飲食店、ギャラリーなどになっています。
倉敷デニムストリート、倉敷は国産ジーンズ発祥の地で、BIG JOHNなど世界的に有名なので、ラーメン屋の椅子がジーンズというお店もありました。小石のコンクリート歩道を進む。桃太郎のからくり博物館などがありました。手作り感のある博物館で中は駄菓子屋さんのようになっています。子供向けだと思います
日本郷土玩具館、倉敷民藝館、中程にある中橋を渡ると上流にも運河は続き、左にはゴッホやモネで有名な大原美術館もありました。外国の方が多かったです。運河なのでほとんど流れはなくて、くらしき川舟流しに行列ができていました。さらに東の元紡績工場の倉敷アイビースクエアとつなぐ石畳通り。人力車もありました。
高砂橋まで戻り、きびだんごで有名な江戸時代から続いているというお店、廣榮堂できびだんごを購入しました。倉敷美観地区は、よくテレビに出ているので感動しました。天気もよく綺麗なところでした。時間があればもっと楽しみたいところです。
昼食はあちの郷「つね家」の個室を予約していたので向かいました。230年前の商家を改装しているそうですが、外観はお洒落で個室はとても落ち着くところでした。メニューは単品もあったのですが、最初から「つね家御膳」をお願いていました。幻の地酒を頼み、岡山名物の「ままかり」を食べました。
「ままかり」の名前の由来は、お魚が美味しすぎて、隣の家にご飯を「かりたまま」から、付いたそうです。お造りは、はまち、まぐろ、鯛です。酒が進みます。揚げ物は、イワシ、ナス、イカ、ししとうの天ぷらでした。ご飯、漬物、甘いみそのみそ汁が付いていました。セルフうどんの発祥の店なのにうどんが出なかったのは残念でした(笑)
食事の後は、岡山城・後楽園見学に向かいました。まずは後楽園を突っ切って岡山城に向かいました。岡山城は、「烏城」の別名を持つ名城です。再建された天守だけでなく、辛くも戦火を免れて現存する貴重な櫓もあります。
日本三名園の「後楽園」や、歴代城主たちが増改築した石垣にも秀吉や家康も重要視した岡山城で、慶長2年(1597)、この場所に黒い天守を建てたのは宇喜多秀家です。父・直家の病死によってわずか10歳で家督を継いだ秀家は、豊臣秀吉の猶子として成長し重用されて、若くして豊臣家の五大老になりました。
秀家は、謀略に長けた父・直家には似ず、豊臣家を生涯裏切らなかった忠義の人です。そんな彼の肖像画は、目鼻立ちのはっきりした、戦国武将とは思えない色白の美男子として描かれています。秀吉の城づくりを模倣したのでしょうか。秀家は、秀吉の大坂城と同じ黒い天守を築きます。
当時の天守は、外壁の下見板に黒い漆が塗られていました。光に照らされると、まるで烏の濡れ羽色のように艶めいていたので、岡山城は「烏城」の別名があります。天守を黒色にしたのは、秀吉から使用を特別に許可された、金箔瓦(金箔が施された瓦)の輝きをより一層美しく見せるためともいわれています。
黒い天守を眺めれば、秀家と秀吉の強いつながりに思いを馳せることができるでしょう。信長の安土城を真似たともいわれる岡山城の天守台は、不等辺五角形の形が特徴的です。天守台の石垣下から天守を眺めると、上の階と下の階の屋根の並びが平行ではなく、歪んでいるように見えます。
四角形ではない天守台に築かれた天守の構造には、その歪みを修正する工夫が施されています。不等辺五角形の土台の形のまま1階部分を建て変形した形のまま上階まで築き上げてしまうと天守の歪みは大きくなり倒壊する恐れがあります。
それを防ぐため、上階の建て増ししたような部分で歪みの修正をしているのです。これができるのは、岡山城が「望楼型」という構造の天守だからです。岡山城の天守が築かれた時代を考えてみると今のようにクレーンも重機もない時代です。
そして戦いがすぐ近くにある時代です。お城や天守を一刻も早く、効率的に築くことが求められた時代だったのではないでしょうか。天守台が不等辺五角形なのは、もともとの地形を生かしているからといわれます。
整った天守台をつくることに労力を費やすのではなく、地形を生かし活用することで工期の短縮を狙ったのかもしれません。天守台の形状の欠点を補うために活用されたのが、注文住宅のように設計の自由度が高い望楼型の天守の構造です。
そして、それを可能にしたのは、法隆寺から続く日本の高い技術力があるからこそだと思うのです。現在、松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城の5つのお城が国宝に指定されています。昭和20年代まで、国宝(旧国宝)に指定されたお城は、なんと24城もありました。岡山城も、国宝のお城のひとつです。
そんな貴重な国宝の城の多くは、昭和20年の空襲で焼失してしまいます。岡山城も例外ではなく、戦火によって天守をはじめ多くの歴史的建造物を失いました。戦後、日本の各地では天守の再建運動が起こります。今、私たちが目にしている岡山城の天守は、昭和41年に再建されたものです。
再建された天守は、戦火で消失する前の天守の外観を再現したコンクリート造りの天守です。いくつか異なる点はありますが、歪みを設計でカバーした望楼型の天守の構造を忠実に再現しているのは、とても素晴らしいことだと思います。
本丸の中の段エリアにあるのが月見櫓です。月見櫓とその周辺は、池田忠雄によって1620年代に拡張されました。引き戸で閉ざされているので分かりにくいですが、月見櫓の城内側の構造は、最上階に「高欄」と「廻縁」があります。とても風格のある建物になっています。
だが、お城の外側から見た月見櫓は、鉄板で覆われた出窓や、石落し・隠し狭間などの防御のしくみを見つけることができます。月見櫓のある場所は、藩の政治を行う「表書院」があった場所でした。そのため月見櫓は、雅な存在としてだけでなく、お城の防御やセキュリティーに配慮した構造をしています。
拡張した池田忠雄の両親は、父が姫路城城主の池田輝政で、母は家康の娘・督姫です。つまり忠雄は家康の孫にあたり、時の将軍・徳川家光と、いとこの間柄です。そんな幕府に近しい関係だからでしょうか。
月見櫓の周囲にある土塀には、「笠石銃眼」という、当時の最新式の鉄砲狭間が備えられているのです。笠石銃眼は、江戸城・二条城・大阪城と岡山城の4ヶ所にしかない、全国的にも珍しく貴重な防御設備ですので、要チェックです。
西丸西手櫓は、西の丸エリアは、池田忠継や忠雄が藩主だった江戸時代初頭に改修されました。その際に建築されたといわれているのが、この西丸西手櫓です。この櫓があるのは、2001年に廃校になった内山下小学校の校庭です。忠雄のあと、池田光政の時代には、西の丸を光政の隠居所に改修しています。
西丸西手櫓の近くには、隠居所の名残りと思われる庭園跡もあります。宇喜多直家の時代→石山エリア(二の丸内郭[西の郭])を整備。宇喜多秀家の時代→本丸・二の丸・二の丸内郭・三之曲輪・三之曲輪の内(北側)を整備。小早川秀秋の時代→本丸中の段の南側を拡張・三之曲輪の内(南側)・三之外曲輪の内を整備。
池田家の時代→本丸中の段の北側を拡張(本丸完成)・西の丸を改修・後楽園完成
石垣には、改修や整備の歴史を紐解くヒントが隠れています。なぜかというと、石垣には加工方法と積み方に違いがあるからです。石垣の細部に注目することで、城主たちの城づくりの歴史に気づくことができるのです
加工の仕方で分類した石垣は、野面積み・打ち込み接ぎ・切り込み接ぎの3種類です。別のお城の石垣をリサイクルして利用したなど例外もありますので、野面積みだから古いお城とは断定できません。けれど、時代の流れを石垣の違いによって、なんとなく把握できるだけで、お城めぐりは何倍にも楽しくなります。
中の段西南の石垣は、小早川秀秋が築いた石垣と、池田忠雄が築いた石垣がつながります。宇喜多時代に築かれた本丸の中の段は、小早川秀秋によって南側が、池田時代には北側が拡張されました。
そのため宇喜多時代の石垣の一部は地下に埋蔵され、地上ではこのように加工度合いの違う石垣がつながる景観が生まれたのです。大手口門(内下馬門)跡付近の石垣には「鏡石(かがみいし)」と呼ばれる大型の石が使われています。
ここはお城の正面玄関である大手口があった場所です。「お城の顔」である大手口に鏡石を備えて、威厳を示したのでしょうか。そんな「魅せる石垣」にもご注目です。岡山城は、歴代の城主たちが拡張・整備した事で、お城が完成しました。
ぜひ岡山城を訪れる際には、歴代城主にどんな人物がいたのかを、ざっくり知って行くとよいと思います。なんとなくでも知識を踏まえて行ってみると、見える景色は必ず違ってくるはずです。
また、岡山城はリニューアルしていて、刀を持ってみたり、火縄銃を構えてみたり、かごの中に実際に入ってみたり馬にまたがってみたりといろいろと楽しめました。
岡山城の本丸の、旭川を挟んだ対岸にあるのは、日本三名園の後楽園です。このような大名庭園は、大名たちの雅な趣向だと思うかもしれませんが、それだけではありません。本丸の東側は天然のお堀である旭川しかなく、お城の守りが手薄なエリアでした。その場所に、お城の守りも兼ねて作庭されたのが後楽園です。
また、庭園には季節の花木だけでなく、薬草や食べられる植物を栽培して、いざという時に備えたといいます。お城のつくりには、無駄な遊びはひとつもなく、お城を守るために計算された戦略があちこちに隠されているのです
岡山後楽園は、石川県金沢市の「兼六園」、茨城県水戸市の「偕楽園」と共に、優れた景勝を持つ三つの日本庭園「日本三名園」の一つとして数えられる庭園です。備前岡山藩の二代目藩主であった池田綱政によってこの後楽園は造られました。
後楽園自体は藩主のやすらぎの場として造られたそうですが、有事の際は城の女子供をここへ避難させるようにと指示されていたなんていう話もあり、この庭園がただの道楽ではなく、別の役割も持っていたようです。
後楽園の裏側から正門へ回り込む経路を進むと、旭川の雄大な景色に出会えます。そしてこのルートの場合は、鶴見橋を渡って正門へ回り込みます。唯心山には、岩と草木のバランスが結構絶妙で、眺めていて不自然さを感じない配置だったり、でもこの配置にも意味があるのだと感心しました。
中の島には家屋があったり橋がかかっていたりして、昔から庭園全体の風景って変わっていないらしいですが、当時から完成されていたんだなあなんて思いながら、水と草木と人工物のコントラストを楽しみました。
素敵な癒やされた時間でした。時間も押してきたので貸し切りバスで岡山桃太郎空港に向かいました。ANA658便に乗るまでお土産を購入して羽田に飛び立ちました。羽田空港の「つきじ庵」で獺祭を呑みながら反省会を行った後、解散しました。思い出に残るタイトな良い旅でした。
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