昭和26年(1951)6月以降、吉田茂の政策はアメリカ依存で日本の独自性がない、と不満をもつ人たちが追放解除されて政界に戻ってきます。その最初に挙げるべき旗頭となった人が鳩山一郎さんで、以下、石橋湛山、三木武夫、安藤正純らが政界復帰します。
岸信介さんは情勢を見るのに聡く、すぐには復帰せずじっと様子を見ていました。鳩山さんは、実はうんと前に、自由党ができた時の総裁でした。ですから当然、総理大臣になれるはずだったのですが、追放が決まったため、復帰するまで党を誰かに任そうということで吉田さんが首相になった経緯がありました。
「留守の間は頼む」「わかった」というはずだったのです。ところが妙なもので、追放解除で出てきた途端に鳩山さんは、脳溢血で倒れてしまいました。吉田さんが、実際はそう思っていなくても「鳩山さんに譲ろうか」という姿勢をちらっと見せた時に鳩山さんが倒れたものですから、やっぱりだめじゃないかと続行することになったのです。
そうすると鳩山さんの周囲はカンカンに怒り、いろんな怨念も絡んで、吉田さんの足を引っ張りはじめました。そういうわけで、吉田内閣は長く続きましたが、党内的には別のごたごたがあったことになります。
対立がどんどん大きくなり、鳩山グループが吉田さんに「早く政権を寄越せ」「いつまでもやっているんじゃない」としつこく突き、対する吉田さんも「うるさい!」と頑張る。自由党内は足の引っ張り合い、狐の化かし合いのようなことばかりになっていくわけです。
昭和26年5月頃、まもなく鳩山さんが戻って来ることを見越して鳩山派が結成されます。この時の自由党内の形勢は、吉田派140人 (うち広川派74人)、鳩山派119人、どっちつかずの中間派が26人でした。まさに勢力伯仲、こういう中で吉田さんが政権を維持するのは大変です。
さらに外側を見ますと、戦前の民政党の大麻唯男や松村謙三といった人たちが新政クラブをつくり、昭和27年2月には国民民主党と合同して改進党を結成。その総裁が重光葵、幹事長が三木武夫というふうに、保守派の中が自由党と改進党の二つに分かれ、さらに左右の社会党の勢いも強く、という次第で、吉田さんの政権運営は困難を極めていました。
強くならないうちにやっちまえ、と昭和27年8月、抜き打ち解散をします。これでまた吉田さんはひどいやつだと言われるのですが、結果としては自由党240人、改進党85人、右派社会党57人、左派社会党54人当てにしていた勢力が伸びないどころか、むしろ右派左派に分かれた社会党が躍進した。
共産党は全滅してしまいましたが。 自由党で当選した人の内訳を見ると、吉田派73人、鳩山派68人、どっちが強いか見定めている中間派が99人という情勢でした。なお、この時は追放を解除された人が329人立候補し、139人も当選しましたから、俄然旧い勢力が出てきたことになります。
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