先日の日記に、幸楽苑千葉中央店に行った事を書きました。
この日は蘇我のアリオに所用が有り、蘇我駅→アリオ→幸楽苑→千葉駅と歩いたのですが、その往路、千葉駅で総武線快速から外房線へ乗り換えようと思えば、ホームにはE131二両編成が停車中…あれれ(・_・?)
確か、E131は内外房線木更津〜館山〜安房鴨川〜上総一ノ宮間、成田線も成田より先だけだと思っていましたが、千葉駅まで来る運用が有ったのかな?
木更津や上総一ノ宮から千葉寄りでは、京浜東北線からスライドした209系がまだ活躍していますが、それらも古くなってきており、ひょっとしてその後継はE131の四両編成とかになるのか?
…なんて思いつつも、試運転なら二両編成とは考え難く、おそらくは単なる回送でしょう。
外房線を蘇我駅で下車。
JR蘇我駅は外房線、内房線、京葉線が交わるジャンクション駅ですが、その割に駅も周辺も簡素な印象です。
余談ですが、外房線も内房線も千葉駅からそれぞれの行先へ向けて走っていますが、両線の列車が重複する千葉〜蘇我の間は内房線ではなく、外房線となっています。
余談終わり。
蘇我と言えば、県外の方だと馬子や入鹿らの古代豪族蘇我氏を連想されるかもしれません。
かなり眉唾ですが、一応こんな伝説が有るそう。
日本武尊の東征時のこと、三浦半島走水から房総半島へ船で渡る際に嵐に遭遇。
この時は、武尊の妻弟橘姫の入水で嵐が去り、一行は房総半島上陸を果たしました。
そして姫の入水は1人だった訳ではなく、他に一緒だった5人の姫の中に蘇我氏の娘がおり、無事に千葉市の浜に辿り着いて「我蘇り(われよみがえり)」と叫んだ事から、蘇我と付けられたとか…
う〜ん…
この話だと、この姫が蘇った後にその言葉から蘇我の名前が生まれたようですが、そもそも蘇我の姫だったんですよね?
すると、自らの家名を引っ掛けた掛詞だったのか?
まさかウケを狙った訳ではないと思いますが…
第一、蘇えるという事はそれまでが仮死状態のようだったのでしょう。
しかし「助かった」ではなく、「蘇った」という言葉が出てくるなら、仮死状態の中でも意識が有り「現在自分は仮死状態だ」と認識していたという事か?
このように疑問だらけの話です。
それに、蘇我氏は武内宿禰の子が始まりとされていますから、蘇我氏の姫というからには、古くても武内宿禰の孫でしょう。
東征自体どこまで本当か怪しいものですが、武内宿禰は武尊より12才年下という事らしく、いくら古代とは言え、ちょっと計算が合わないような…
蘇我氏という豪族が独立していたかどうかもギリギリの気がしなくもない…
古代の蘇我に関してはそんな程度にしておいて、現在の蘇我はかつての川崎製鉄、JFEスチールの城下町と言えるでしょう。
日本に三社しか無い高炉メーカーであり、千葉市沿岸部の象徴と言っても過言ではない巨大企業です。
もう1つ、蘇我の象徴であるジェフ千葉本拠地フクダ電子アリーナも、その土地は確か川鉄による提供という事だったかと…
ずいぶん前、アミノバリューランニングクラブの練習会で一度だけ来た事が有ります。
そのJFEスチールの施設がチラリと見えましたが、それが何なのかは分かりません。
そんな事を考えつつ、用を済ませ、配膳ロボットのPEANUTSくんに会う為、R357を幸楽苑に向かった訳です。
幸楽苑でPEANUTSくんに挨拶した後は、途中の白幡神社にお詣り。
この神社も源頼朝縁の神社という事です。
つまり白幡=源氏の白旗でしょうか。
千葉県内には頼朝所縁とされる史跡が数多く残っています。
千葉県の滞在が1ヶ月程度である事を考えれば、その多くは頼朝のあやかろうなどの後付けなのでしょう。
場所的にここは実際に来ていた可能性は大と思いますが、他のそれらもまた歴史の一コマです。
そして、細長い事で有名な(笑)新宿公園。
昔は、セントラルポートスクエアへ行く際によく通行しておりました。
なかなか味が有るクジラとイルカもいます。
ところでこちら。
先日閉店した津田沼パルコB館には、献血ルームが有り、年に数回利用しておりました。
献血ルームは、B館跡に出来るviitという商業施設に残るとは聞いていましたが、viitと同時にオープンという事のようです。
それは近々行かねば!
私が人様の役に立てる数少ない場所なので、ここはずっと無くならずにいて欲しいものですo(^o^)o
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