先月、船橋の代表的な河川である海老川を源流から歩きました。
船橋市の地図を見ても、一番目立つ川が海老川なのですが、実は二級河川。
こうした一級二級は、国が「重要」と認定したのが一級、都道府県なら二級、更に市町村なら準用という区分であり、川の長さや幅などが基準ではないですが、海老川は重要であると国が考えなかったのは、些か納得し難いところ。
海老川でさえ二級なら、船橋市に一級河川は無いのか…
と思えば、神崎川、二重川、桑納川の3つも有りました。
しかし、ほとんど隣接市との境界に沿って流れており、もちろん川幅も大した事はありません。
船橋市の川という印象が希薄なのはともかく、海老川よりこれらの方が重要なんだろうか?
よく分かりません(・_・?)
それはそうと、この地図の拙宅近くを見ると、菊田川の支流である田喜野井川から、更に分かれる二宮川が描かれています。
実際に歩いてみると、遊水池から出ている暗渠が正にこのとおりの形をしているのが分かりますが、この辺りはあちらこちらに暗渠らしきモノが有るので、地図から省略された流れも有るのでしょう。
暗渠と言っても、一目でそれと分かるようなモノばかりでなく、おそらくこの家の下辺り…といった場合も有ります。
そしてこの二宮川の源流は、拙宅近くの草ぼーぼーな未整地(最近草刈りされたようですが)のよう。
ここは台地に食い込んだ谷戸の先端部という地形ですから、ここが源流という事に間違い無いでしょう。
そしてこの地図を見ているうちに、西船橋近くに太刀洗川という名称を発見!
太刀洗と言えば、南北朝時代に懐良親王と共に南朝方として戦った菊池武光に因む地名が福岡県に残っていますが、千葉県、それも船橋市にそんな地名が有ったとは(@ ̄□ ̄@;)!!
調べてみると、太刀洗川、或いは血洗川と呼ばれ、こんな言い伝えが有るそう。
「征夷大将軍になった源頼朝の力は強大なものでしたが、意富比神社(船橋大神宮)の神官はその力に屈することはありませんでした。
頼朝は神社の管理下であった船橋六郷の地を重臣である葛西清重に与え、清重は船橋に攻め入ります。しかし神官と六郷の農民は激しく抵抗し、戦いは長期戦に。苦しい戦いの責任を感じた神官は切腹し、その血を小川で洗ったことから「血洗川」と呼ばれるようになったという説が残っています。」
へぇぇ…
そんな事が有ったとは…(。>д<)
と言いたいところですが、神官って切腹するんだろうか?
切腹を武士の名誉と考えるようになったのは、一説によると秀吉と戦った備中高松城の清水宗治以降。
自決の手段としては平安時代から有ったそうですから、頼朝の時代に有ったのは確かでしょう。
一方、船橋大神宮の歴史には源頼朝からの寄進を受けたという話も有るよう。
また、父親の源義朝によって再建されたといった事も有ったとか。
ある時期敵対していたからと言って、その前後に友好的だった時期が有っても、必ずしも不思議とは言えませんが…
何やら違和感を感じなくもなしと言ったところでしょうか。
まして房総の豪族には大きな借りが有った筈で、広く信仰を集めていたであろう船橋大神宮を、天下人になったからと言って、わざわざ敵に回すような事をするだろうか?
ただ、神官と言っても、この時代には在地領主としての一面を有ったとも考えられているようで、ならば或いは有り得る話なのかも…
そんな太刀洗川は、現在殆んどか暗渠。
それでもその跡を歩いてみたい(⌒0⌒)/~~
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