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2022年07月29日05:30

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アメリカによる日本人に対する差別

アメリカ西海岸でフロンティアが消滅したところ、東洋人の移民は急増し、「公共の負担となる恐れのある貧困者その他」もふえていきました。その中で日本人は低賃金、長時間労働をいとわず勤勉に働いたことから現地労働者の反感を買い、やがて彼らの存在が社会問題化しました。

日露戦争の終結後になるとこれが政治問題にまで発展し、排日の動きにとなって、明治39年11月1日、サンフランシスコ地震の直後には日本人学童を隔離するという事件が発生していたのです。大正7年11月、第一次大戦が終わると、カリフォルニアの排日問題が再び燃え上がりました。

翌8年1月、日本のシベリア出兵問題に対してアメリカの反発が強まるなかで、いくつかの排日団体が動き始めました。カリフォルニア排日協会はその有力な団体のひとつでした。若槻泰雄著『排日の歴史』によると、この団体が要求していたのは次のようなものでした。

一、日本人の借地権を奪うこと。
二、写真結婚婦人の渡来を禁止すること。
三、「紳士協約」を撤廃し、立法手段により日本移民を禁止すること。
四、日本人に対し永久に帰化権を与えないこと。
五、アメリカにおける日本人の主性者に市民権を与えないこと。

こうした圧力に日本政府は、アメリカでは実に評判が悪かった写真結婚の禁止に踏み切った。すでに大正2年の「外国人土地方」で日本人の土地所有が禁止となり、それでもアメリカ国籍を持つわが子と共同で会社を作れば土地を所有できるという抜け穴もあったため、第二弾の土地方案件成立を求める動きはいっそう激しいものとなったのです。

大正9年11月「排日土地方」が成立しました。これは日本人の土地所有の禁止と借地の制限を骨子とするものであり、農業に従事するものが多かった日本人には致命的な法律でした。この間、幣原駐米大使とモリス駐日大使との間では23回もの交渉がおこなわれたのですが成果はなかったのです。

幣原は本国に、アメリカ本土行きの旅券発給の制限を要請し、政府はこれに同意しました。いわゆる自主規制です。日本人学童の隔離といった初期の排日論をはるかに超えた、日本人そのものを俳するという方向に向かって西海岸各州が動き始めていたのです。のちに大正13年の「排日移民法」成立はまさに決定的な出来事だったのです。

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