貧しい人々の為に乱をおこした学者と言えば、大塩平八郎でしょう。江戸時代後期の儒学者で大阪町奉行所の役人でした。天保の飢饉の中、貧しい人々を救う為に乱をおこしました。乱は半日で鎮圧されましたが、事件は全国に伝わり、各地の反乱を引き起こしました。
大塩平八郎は、大坂町奉行所の役人の子として生まれました。平八郎自身も役人になりましたが、陽明学(中国の明の時代に、王陽明がつくった儒学のひとつ)を学んだ後、塾「洗心洞」を開きました。
1832年、天保の飢饉で飢え死にする者があふれるなか、米は豪商に買い占められ、大変な値上がりをしました。役人をやめていた平八郎は、非常用の米を分けあたえてもらうよう、奉行所に訴えましたが、聞き入れられませんでした。
平八郎は自分の書物を売って六百両の金をつくり、人々に分けましたが、全く足りませんでした陽明学では、「行動をともなわない知識は未完成であり、行動をおこすべきである(知行合一)」と説いています。
平八郎はこの教えをもとに、不正を行っている大商人や無能な役人を懲らしめることを決心しました。平八郎は塾生たちと軍事訓練を行い、「救民」を旗印に同志を集めました。しかし、事前に計画がもれてしまったため、予定を早めて1837年に反乱をおこしました。
しかし、乱は半日でおさえられ、逃げた平八郎は自殺しました。幕府の役人であった武士が反乱をおこしたことは、幕府にとって大きな衝撃となりました。この事件は全国に伝わり、各地で大塩をまねた一揆や打ちこわしがおきました。
また、江戸初期には、多くのキリシタンが処刑されました。60名の信者が、京都で火あぶりになったのは、1619年のことです。1622年には、「長崎大殉教」で宣教師たちが、極刑となっています。島原一揆にたいする大弾圧もありました。徳川幕府の姿勢が18世紀末以後に軟化していたことは、うたがえません。
1827年の「大阪切支丹一件」は、厳しく処断されました。6名の信者を市中へひきまわし、磔にしたのです。しかし、この件で、ことを穏便にすまそうとする者がいました。キリシタンの事件であることを表面化させたのは、与力の大塩平八郎です。
大塩平八郎の尽力がなければ、これも闇から闇へ処理されていた可能性がありました。それだけ、大塩平八郎が正義感の持ち主であったということか。しかし、その邪共観が、同時代にあって古めかしくなりだしていたことは、否めません。
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