足尾銅山の鉱毒問題と戦った社会運動家と言えば田中正造です。小学校の教科書にも関東の小学校の校外学習にも採用されます。田中正造は、明治時代の政治家・社会運動家。自由民権運動に加わったのち、衆議院議員に当選。足尾銅山の鉱毒問題に取り組みました。
天皇陛下に直訴したことから、反対運動は大きな高まりをみせました。下野の国(今の栃木県)の名主の家にうまれた田中正造は、板垣退助が起こした自由民権運動に加わり、栃木県で国会開設を求める活動をしました。
1880年、栃木県会議員に当選した正造は、足尾銅山から川に流される毒の問題に取り組むようになりました。渡良瀬川が毒で汚れたために、魚が死んだり、洪水で川の水が田畑にあふれると、作物がとれなくなってしまったからです。
1890年、衆議院議員に当選した正造は、政府の責任を厳しく問いただしました。しかし、この頃の政府の方針は富国強兵で、産業によって国を富ませることが第一と考えていました。銅はそのために必要な金属だったので、政府は積極的な対策をとりませんでした。
怒った正造は議員をやめ、1901年、明治天皇に直接訴えようとしましたが、取り押さえられ失敗しました。しかし幸徳秋水らの助けもあり、反対運動は大きく高まりました。政府は谷中村をつぶして遊水池をつくり、毒水を流しこむ方法をとりました。
けれども、これは毒をなくすことにはならないため、正造は谷中村に移り住んで反対運動を続けました。政府は強制的に土地を買収して遊水池をつくろうとし、正造はこれに対して、小屋を建てて戦い続けましたが、やがて病死しました。73歳でした。正造の死後、わすかに谷中村に残った人々も、遊水地の完成を前に村を出ていきました。
足尾銅山は、銅を取りつくすまで営業が続けられ、そのために一つの村がなくなり、多くの人々が犠牲となりました。足尾鉱毒事件は、日本で環境汚染による公害問題でしょう。その後、日本では1960年頃から、公害問題が注目されるようになりました。正造は、日本の環境問題にいち早く取り組んだ人なのです。
残念ながら、正造は村を守り抜くことができませんでした。けれども、「だれもが。暮らしやすい世の中をつくりたい」という強い思いから、立場の弱い人たちのそばに立って、粘り強く続けた正造の姿は、のちの人々に多くの影響を与えたのです。
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