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2019年10月24日18:55

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このサイトに嵌まってますPart0040


 本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生889日目、「極東戦域核戦争」開戦843日目、「人民の天皇論」宣撫開始178日目(怒)。〔再掲〕日本法制通史概論その9。で、前回の翌日に書いたのが「日本法制通史概論」第20弾「殯宮制度編」。〔2016年03月21日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0034


 さてと、3月も下旬なのに今月まだ1本しか書いてない。しかも微妙に中途半端なとこでとめてしまったので話を続けますか。前回、遷宮時代の歴史的経緯とその原因について書いた。今回は少しさかのぼって建国期を含めた遷宮時代の歴史的遷移について追って行こう。だがその前に遷宮のもう一つの原因について書いておきたい。


それを「殯宮の制」と呼ぶ。


じゃ、これ何なのか?ストレートに言ってしまえば「土葬」のことなのだ。古来、皇室では天皇が崩御なされるとその御遺体を安置する


「宮殿」を「殯宮」と言う名の「墓所」として封印する


慣習があったのだ。無理もない。医学が未発達で、クーラーもドライアイスもなかった時代。少しでも望みをつないで「死の判定」を遅らせようとする「心理」と、目の前で父君の御遺体が崩れていくのに直面する「現実」との間で古代の諸帝たちは引き裂かれてしまったわけだ。繰り返すが無理もない話しだ。ふーー(-_-;)。通例では1〜3年間「殯宮」し、1〜3年後にその間に造営した「御陵」に正式に葬られるわけだ。その間、「殯宮」とは別の場所に「新宮殿」が建てられ政務・神祇は以後そちらで行われるわけ。これが、戦時でもないのに「総本拠地」内で「遷宮」が繰り返し行われた理由だ。ちなみにこの「殯宮の制」は皇室にとってトラウマになるほど辛い制度だったらしく、以後「死穢の教理」をもって「生死にかかわる事柄」を身辺から極端に排斥するようになる。これが、「武士の勃興」を始めとする国史の発展に大きくかかわってくるのだがその話はまた後で語ることとして話を元に戻そう。えっと、遷宮時代の歴史的遷移だったな。前回掲載した建国から現代までの遷宮の一覧を一部修正したものは以下のとおり


「総本拠地」    初代神武天皇 紀元前60年?〜 推定254年間
                   ↓
奈良県奈良市  第09代開化天皇 西暦0195年?〜 推定 32年間 統一戦争
                   ↓
「総本拠地」  第10代崇神天皇 西暦0227年?〜 推定100年間

滋賀県大津市等 第12代景行天皇 西暦0327年?〜 推定 35年間 韓国建国戦争
                   ↓
「総本拠地」  摂政・神功皇后  西暦0362年 〜 推定 17年間
                   ↓
大阪府大阪市  第15代応神天皇 西暦0379年?〜 推定 49年間 対高句麗戦争
                   ↓
「総本拠地」  第17代履中天皇 西暦0428年 〜     5年間
                   ↓
大阪府松原市  第18代反正天皇 西暦0433年 〜 推定  5年間 (大阪廃都)
                   ↓
「総本拠地」  第19代允恭天皇 西暦0438年?〜 推定 16年間
                   ↓
奈良県天理市  第20代安康天皇 西暦0454年 〜 推定  3年間 (眉輪王の変)
                   ↓
「総本拠地」  第21代雄略天皇 西暦0457年?〜 推定 32年間
                   ↓
奈良県天理市  第24代仁賢天皇 西暦0488年?〜 推定 10年間 (皇子帰朝)
                   ↓
「総本拠地」  第25代武烈天皇 西暦0498年?〜 推定 09年間
                   ↓
大阪府枚方市等 第26代継体天皇 西暦0507年?〜 推定 19年間 (正統入都)
                   ↓
「総本拠地」  第26代継体天皇 西暦0526年?〜 推定126年間
                   ↓
大阪府大阪市  第36代孝徳天皇 西暦0652年 〜    03年間 (百済救援戦争計画)
                   ↓
「総本拠地」  第37代斉明天皇 西暦0655年 〜    12年間
                   ↓
滋賀県大津市  第38代天智天皇 西暦0667年 〜    05年間 (壬申の変)
                   ↓
「総本拠地」  第40代天武天皇 西暦0672年 〜    37年間
                   ↓
奈良県奈良市  第43代元明天皇 西暦0710年 〜    74年間
                   ↓
京都府向日市  第50代桓武天皇 西暦0784年 〜    10年間
                   ↓
京都府京都市  第50代桓武天皇 西暦0794年 〜  1074年間
                   ↓
東京都千代田区 第0124代明治天皇 西暦1868年 〜
                   ↓
現代・東京時代 第0127代今上陛下 西暦2016年  今年で149年目


一目瞭然。建国から推定254年間、皇室は総本拠地(奈良県橿原市とそれに隣接する4市町村)を動いていない。これは「欠史八代」とぴったり一致する。地図を見ればすぐわかるがこのとき皇室が「東国開拓」に使っていた「兵站連絡線」も再現できる。おそらく和歌山市→五條市→御所市→橿原市→桜井市→高見峠→伊勢市→渥美半島の順だ。渥美半島掘れば古代の要塞が出てくるはずだぜ。おそらくは伊良湖岬か大山の周辺で伊勢神宮のワンセット一組となった「城」がね。ま、話がずれた元に戻そう。


第09代開化天皇の時代に始めて皇室は総本拠地の「外」に遷宮する。


奈良県奈良市の春日率川宮だ。西暦0195年?のこと。これは「倭国大乱」とほぼ一致する。東国を完全制圧した直後、淀川・琵琶湖水運とアクセスの良い奈良市に「大本営」を前進させたのだろう。高見峠より鈴鹿峠の方が伊勢そして東国とのアクセスもいいしね。そして日本全体を統括する初の「帝」として即位したのが第10代崇神天皇だ。その和風諡号「所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) 『古事記』 」について赤学者が馬鹿なこと言ってるのには本当にウンザリ(-_-;)。やつらの悪すぎる頭では「建国者」が二人もいるわけないんだそうだ。「中興の祖」って言葉知らないのかね?長い皇統の歴史では「いくらでもある話」だぜ。しかも、古事記と日本書紀をゴッチャにしてやがる。古事記には矛盾がないことさえ語らない。返す返すウンザリ(-_-;)。これは「二法並存法制」というわが国の「国体(=慣習法を含めた憲法総体)」にも係わる重要論点なので少し触れておこう。記紀の記述は以下のとおり


  初代神武天皇   始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)日本書紀

第10代崇神天皇     御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)日本書紀

第10代崇神天皇 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)古事記


明治立憲の時にも議論されたことだが「しらす=知らす」であり、実は「君臨」を表す「法制用語」なのだ。そしてこれは必ずしも「統治」を表さないのである。これは建国のときからずーーーとそう。日本の法制においては「君臨」と「統治」は建国以来すーーーと「峻別」されてきており、最終的には「宮務法体系」と「国務法体系」が同時並列的「施行」される「二法並存法制」がこの国の「国体(=慣習法を含めた憲法総体)」になっのだ。これは今この瞬間もそう。これについては「多くの経緯」があった話だからこれからゆっくり語っていくよ。ま、いまはわが国においては「君臨と統治」は「峻別」しなければならないとだけ覚えておいてほしいね。そのうえで、上記諡号を解説すれば


日本書紀の初代神武天皇に対する諡号は「追号」である


ということ。だから、古事記には記載がないのさ。神武天皇の時代の皇室はまだおそらく「出雲王国」支配下の一豪族であり、部下にさえ裏切られて族長の五瀬命が戦死する大苦戦の真っ最中。神武天皇おん自ら白刃をかざして奇襲作戦の指揮を執らなければならなかった時代だ。「しらす」なんていってる場合ではなかったのだ。だが後世、わが国に「君臨」することとなった皇室は自分たちを「総本拠地」に導いてくれた神武天皇の徳をたたえそう始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)「追号」したのである。わかり易く現代語訳すれば


  初代神武天皇   初めてわが国(大和国)に君臨した天皇

第10代崇神天皇   初めてわが国(日本国)全体に君臨した真の天皇


ってこと。いいかげん、このぐらい理解しろよ(-_-;)。それから100年間、統一戦争に勝利して安泰となった皇室は「総本拠地」からこの国を統治した。だが書いたとおり大陸で「民族大移動」が起こり半島に動乱が飛び火し、それに対処するために倭健命を先頭に国軍が建軍され韓国建国戦争に打ってでたわけだ。東海道が日本の大動脈になったのはこのころの話だな。主力部隊の侵攻もおそらく「旧出雲王国」が設置した「日本海ルート」が使われたのだろう。そこで「新羅問題」がでてくるわけだ。兵站連絡線は


滋賀県大津市→福井県敦賀市→島根県出雲市→韓国蔚山市→韓国ソウル市→平壌コロニー


の順だな。だが、新羅が「裏切った」。そこで日本側は「日本海ルート」を捨て、大規模に兵站連絡線を再構築しなければならなくなったわけだ。その核として作られたのが「大阪」だった。これが神功皇后の三韓征伐の真相だ。新羅を迂回して半島に侵攻するため新たな兵站連絡線が敷設された。


大阪府大阪市→山口県下関市→福岡県福岡市→韓国金海市→韓国ソウル市→平壌コロニー


作戦は大成功。日本軍と同盟軍(百済王国軍)は平壌コロニーに侵攻。高句麗の故国原国王を討ち取りコロニーを占拠した(西暦371年)。第15代応神天皇の御世だ。帝は後に武神として武家の名門「源氏」の氏神「八幡さま」としても崇められる事となった。鎌倉の「鶴岡八幡宮」は初代鎌倉将軍・源頼朝が建てたその分社だ。ただ、「戦争」はそれでは終わらなかった。そっから先はまた次回語ろう。


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さてと、「国史」らしくなってきたでしょo(^-^)o 。「統一戦争」=「倭国大乱」とみるならば年代算定基準はおのずと定まる。みんながここに着目しないのが取っても不思議(笑)。それとも、俺が未見の資料でもあって別系統の算定基準でもあるんだろうか?ちと、不安になるが、ま、その時は比較の上また考え直せばいいか(-_-;)。次いで10日後に書いたのが本稿第三のポイント論考。「日本法制通史概論」第21弾「古代"開幕"編」。〔2016年03月31日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0035


 さてと、話を続けますか。前回、「殯宮の制」と「八幡さま」の大勝利までいった。経緯については以前述べたのでそのとき国内では何が起こっていたのかについて語ろう。古代における「総本拠地」外への「遷宮」事例は以下のとおり。


「総本拠地」    初代神武天皇 紀元前60年?〜 推定254年間
                   ↓
奈良県奈良市  第09代開化天皇 西暦0195年?〜 推定 32年間 統一戦争
                   ↓
「総本拠地」  第10代崇神天皇 西暦0227年?〜 推定100年間

滋賀県大津市等 第12代景行天皇 西暦0327年?〜 推定 35年間 韓国建国戦争
                   ↓
「総本拠地」  摂政・神功皇后  西暦0362年 〜 推定 17年間
                   ↓
大阪府大阪市  第15代応神天皇 西暦0379年?〜 推定 49年間 対高句麗戦争
                   ↓
「総本拠地」  第17代履中天皇 西暦0428年 〜     5年間
                   ↓
大阪府松原市  第18代反正天皇 西暦0433年 〜 推定  5年間 (大阪廃都)
                   ↓
「総本拠地」  第19代允恭天皇 西暦0438年?〜 推定 16年間
                   ↓
奈良県天理市  第20代安康天皇 西暦0454年 〜 推定  3年間 (眉輪王の変)
                   ↓
「総本拠地」  第21代雄略天皇 西暦0457年?〜 推定 32年間
                   ↓
奈良県天理市  第24代仁賢天皇 西暦0488年?〜 推定 10年間 (皇子帰朝)
                   ↓
「総本拠地」  第25代武烈天皇 西暦0498年?〜 推定 09年間
                   ↓
大阪府枚方市等 第26代継体天皇 西暦0507年?〜 推定 19年間 (正統入都)
                   ↓
「総本拠地」  第26代継体天皇 西暦0526年?〜 推定126年間
                   ↓
大阪府大阪市  第36代孝徳天皇 西暦0652年 〜    03年間 (百済救援戦争計画)
                   ↓
「総本拠地」  第37代斉明天皇 西暦0655年 〜    12年間
                   ↓
滋賀県大津市  第38代天智天皇 西暦0667年 〜    05年間 (壬申の変)
                   ↓
「総本拠地」  第40代天武天皇 西暦0672年 〜    37年間
                   ↓
奈良県奈良市  第43代元明天皇 西暦0710年 〜    74年間
                   ↓
京都府向日市  第50代桓武天皇 西暦0784年 〜    10年間
                   ↓
京都府京都市  第50代桓武天皇 西暦0794年 〜  1074年間
                   ↓
東京都千代田区 第0124代明治天皇 西暦1868年 〜
                   ↓
現代・東京時代 第0127代今上陛下 西暦2016年  今年で149年目


 「八幡さま」こと応神天皇が対高句麗戦争の大本営として建設したのが難波大隅宮つまり大阪府大阪市だ。道が悪く外洋航海が酷く危険だった時代、大動員を駆けるためにはに内陸水運を使うのが最良の手段だったので淀川水系と琵琶湖水系を全体の半分で使える東海道が瀬戸内水運と並ぶ日本の大動脈となった。琵琶湖水運の末端の滋賀県大津市と淀川水運・瀬戸内水運の結節地である大阪に古代たびたび首都がおかれたのはこれが理由だ。この状態は基本的に海運が再編成される室町時代後期(戦国時代中期)まで続いた。そして何が起こったのか?それは


「武士(もののふ)」の勃興


だった。当たり前だろ、「戦争」やってんだから。一般の日本史では平安時代中期になーーーんの説明もなく「侍」たちが「突然」現れるが、人には親が居て、物事には順番と言うものがあるのだ。何事も「突然」なんてありえないの、いいかげん理解してほしいわ(-_-;)。ちょっとここで当時の国内制度について概説しておこう。神武東征によりわが国が建国されたとき、皇室の周囲は九州の「豪族」だったころから使えている譜代の家来たちが周囲を守っていた。


それを率いて神武様はおん自ら白刃をふって戦い大和国(奈良県)を平定なされたわけだ。


ところが残念なことに、本来大和軍の中核になるべき「譜代の家来」たちは以前書いた「タギシミミノミコトの乱」で反乱軍に参加して壊滅してしまう。以後大和軍の中核は皇室自身の支族(分家)と皇室に降伏した大和地生えの豪族が司る事となった。これが「臣(おみ=おんみ、つまり皇室の分家)」と「連(むらじ=連なるもの、つまり皇室の協力者・同盟者)」だ。これらの下に居る伴造(とものみやつこ=ともに造り上げる人、つまり技官・エンジニア)、百八十部(ももあまりやそのとも=多くの仕事をする人、つまり職人・棟梁)、国造(くにのみやつこ=国を作る人、つまり開拓団長)、県主(あがたぬし=あがなった地の主、つまり皇室に降伏した豪族)と共にこれを


「姓(かばね)の制」


と呼ぶ。おそらく「血筋・家系=株根=かぶね≒かばね=姓」だろう。最初は、日子(ヒコ=太陽の子、つまり皇子、彦)、日女(ヒメ=太陽の娘、つまり皇女、姫)、根(ネ=血筋の良い人、禰)、見(ミ=美しい人、美、耳、彌)、玉(タマ=輝く人、多模)、主(ヌシ=地主)、守(モリ=守る人、母理)、古利(コリ=古くから居る人・先輩、凝)、戸部(トベ=家を持ってる人、戸畔)、岐(キ=義理堅い人、支)なんて呼ばれていた豪族や棟梁たちは古代皇室の開拓や制覇行によって根・見・玉が国造に、主・守が県主に、古利・戸部・岐が伴造へと統合されていった。実際これしかなかっただろう。なにせ、「文字のない時代」だ。つまり「学校も教科書」も「ありえない時代」なんだから。教育は「家庭教育」しか存在できず、


「法」も「技術」も北斗神拳とおんなじように「父子相伝」するしかなかったわけだ(-_-;)。


おれたちゃ良い時代に生まれたね。造ってくれた祖先に感謝だ(笑)。ま、この制度にもそれなりに良いところもあるのだ。それは「子供の負担」が今よりずーーと軽いことだろう。親父の真似してれば良いんだからね(笑)。「お家=学校」で「親父=先生」だ。まさに習うより慣れろ、学ぶより真似ろだ。すごくしっくりくるに違いない。日本に長く続く「学者」や「職人」の家系が多いのはこんなところが原因なんだろう。この状態は一部例外(語学技術者)を除けば建国から1000年ほど続き、


最終的に終了したのは145年前の明治4年(西暦1871年)の話だ。


 ちょっとずれた。話を元に戻そう。始まった戦争を「統帥」するためには「将軍」を任命し「指揮権」を与えなければならない。そして兵站補給、今で言えば「軍需動員」
を可能にするために「国内」の統制権を与えなければならなくなった。それを与えられたのが「連」の中の有力氏族である物部氏と大伴氏であり、与えられた者を「大連(おおむらじ)」と呼ぶ。皇室の側ではこれに対するカウンターバランスとして「臣」の中の有力氏族から「祭祀」を補佐する者を選んだこれを「大臣(おおおみ)」と呼ぶ。なんか聞いた話だと思わないか?そう、


この「大連」こそ「征夷大将軍」の原型なのだ。


「幕府」は古代、統一直後の4世紀からすでに始まっていたのである。少し飛ぶが後に「大連」の制度は一時廃止されてしまうが東北アイヌの統合のために「征夷大将軍」と言う形で東北限定で復活した。初代の「征夷大将軍」の名は大伴弟麻呂は「大連」大伴金村の6世孫(ひ孫のひ孫)だ。それを後に初代鎌倉将軍・源頼朝が受けついで「承久の変」で全国統治を施行して「幕府」を復興させたわけ。だから言ったでしょ。何事も「突然」なんてありえないって(笑)。さてと、今日はここまでにしときますか。続きはまた次回語ろう。とほほ。


おまけにみくしー検索かけてみました。 ヒットあったけど全部チャイナの大連市の話の様な気がする。とほほ。

 「大連」

日記 検索 (5件)ひっと。


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大変残念なことだが、「日本法制通史概論」はここで情勢の急速な悪化によって「海洋軍事史」、そして「北方領土史」執筆のため「休載」することとなった(怒)。あげくに皇統廃絶クーデター発生により「ダイジェストのダイジェスト」を書く羽目となり書き出した後継論考が「法の君主論」(怒)。「日本法制通史概論」は苦労も多かったかある種「喜び」もある作業だった、だが「法の君主論」はひたすら激しい怒りと悲しみが交互にこみ上げてどうにもなんない(ToT)。そして集中はするが、異様なほど疲れる(-_-;)。極左側は君主降格プロパガンダ「人民の天皇論」を着々と打ちつつあるのに(ToT)、「対抗プロパ」打ってるのなんと俺だけ(ToT)。中川博士は「人民の天皇論」の基盤攻撃を続けているがコミュニズム系極左独裁理論


「丸山政治学」を基礎に極左勢力が中央官庁を制圧している現状ではそれではあまりにも時間がかかりすぎる(-_-;)。


もちろん、無意味ではない。だか、押し切られる(怒)。伝えた「生徒」が実権を持つころには「5000万チャイニーズ」が日本全土に展開して、「列島生産建設兵団」が至る所に目白押しになる(怒)。すでに「雛形」のような「組織」は某準暴力団はじめ目白押しだ(ToT)。ふーーーー、「最後」までやろう。決定打だったはずの「アンチ・クーデター裁判」も「自民党分割工作」も「保守本流再建運動」も目は消えた(-_-#)。「保守論壇誌再興」も「自公分断」もおそらく無理(怒)。動いてるの「対皇室ダメ・コン」ぐらいなもんで、それでさえほぼ「一方的」に押し捲られている(ToT)。だが、俺は「最後」まで「やる」(怒)。


「15年」、俺はこのままなら「この国」の実質「余命」をそう見ている。


中共は1998年の「日本政界制圧作戦」開始からわずか「19年」で日本の「中枢機構」である「日本国皇室」を「クーデター」で実質的に「無効化」することに成功した(怒)。「中枢機構」が解体された国家機構を崩壊に導くのに「15年」あれば十分すぎる(-_-#)。ソ連の「中枢機構」たる「ソ連共産党政治局」が実質的に解体(1983年)されてからソ連崩壊までわずか「8年」(黒笑)。けっして、「絵空事」じゃないんだよ(-_-#)。「その9」はデーター量の関係から今日はここまで。まだまだ続きます。その話はまた次回語ろう。


PS、陛下が「即位礼」を終えられた。・・・・・・、激越に進行する「人民の天皇論」および必ず始まる女性宮家導入を柱とする国会の「皇統廃絶革命」への分析は稿を改める。陛下とわが国に神仏のご加護あらんことを心より祈る。

PSのPS、あの青山繁晴が「自民党内の保守派」だって(黒笑)。青山が主張しているのは「旧宮家復帰論」に偽装した「養子論」(怒)。これは女性宮家導入を柱とする国会の「皇統廃絶革命」を側面支援する「第二悌団」と見るべきなのは当然(-_-#)。絶対に「過失」ではない(怒)!




おまけにみくしー検索かけてみました。

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