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2019年10月16日11:37

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このサイトに嵌まってますPart0036


 本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生881日目、「極東戦域核戦争」開戦835日目、「人民の天皇論」宣撫開始170日目(怒)。〔再掲〕日本法制通史概論その5。前回の10日後に書いたのが「日本法制通史概論」第13弾。「民族大移動編」。中断宣言して戻ってきた直後。みんなよく読んどいてね。これ近未来に必ず日本列島で再現される「風景」だから(黒笑)。〔2016年01月20日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0024編集する
2016年01月20日13:50全体に公開 みんなの日記 1 view


 すまん、これだけは貼らせてくれ。あまりにも、中途半端に中断したんでイライラしてきた(-_-;)。後ろ髪惹かれる思いだがこれで中断する。というわけで、日本法制通史概論第13弾完成版いきます。

 さてと、話を続けますか。前回、「大成功で大失敗だった第二次対チャイナ外交」まで行った。いよいよ、終わったはずの「戦争の悲劇」が再開されてしまったという話しに行きます。今から、1700年前、日本は第12代景行天皇のもとで平和裏に統治されていたが、


大迷惑なことにチャイナ大陸で大内戦がオッパじまったのだ。これを「八王の乱」という。


仔細は省く書くのも馬鹿馬鹿しいとしか言いようのない皇位継承をめぐる低劣な権力闘争による内戦だ。一度調べてごらん。意味不明で何がどうなっているのか良くわかんない「馬鹿騒ぎ」なのが良く判るから(-_-;)。だが、これがもたらしたものは日本を含む周辺諸国全てを戦火に叩き込む最低・最悪の大動乱だった。


民族大移動が始まった


のだ。ちょっと話が戻るが、今から2200年前、チャイナ大陸に「大漢帝国」が成立したのと同時にモンゴル高原に「大匈奴(フン)帝国」が成立した。そして、両帝国は成立と同時に激突した。そして、戦闘民族・匈奴(フン)族は緒戦で大漢帝国初代皇帝を生け捕りにする大勝利を収めたのだ。以後、「漢帝国」は実質的に「大匈奴(フン)帝国」の属国になった。そして、その80年後、国家体制を整えた「漢帝国」は反撃に出た。


名将、衛青・霍去病(おそらく二人ともフン族)を奴隷身分から抜擢し騎兵部隊を編成させて全面戦争へと打って出た。


この「漢・匈奴戦争」は休戦をはさみながら実に300年間も続いた。300年間も続いたのだ。絶句。チャイナもフン族もドンだけ「戦争好き」なんだよ(-_-;)。日本人に生まれて本当に良かったよ(-_-;)。ここで少し、「大匈奴(フン)帝国」をはじめとする騎馬帝国を作った遊牧民たちについて軽くコメントしておきたい。3つ覚えておいて欲しい。よく、誤解される点だからね。


� ⇒桂厂韻麓輓帖�採集民の末裔ではなく(有畜)農民の末裔であること。

�◆⇒桂�(フラフラ動く)しておらず、決まった牧地(天然牧場)と冬営地(牧場)の間を往復するプロの飼畜業者であること。

��、生活全体を商業経済に依存しながら自らは商業そのものを行わないこと。


だ。これは今でもそう。かれら平和な飼畜業者達は2800年前、騎乗法を開発し短弓戦術と組み合わせることによって戦闘民族へと劇的に変化していった。その軍事的優位はそれから実に2600年間続いた。ま、くわしくは執筆中のロシア・東欧史概論の第二段で書くとして話を元に戻そう。2120年前再開された


「漢・匈奴戦争」は主として内モンゴル地区の争奪戦となった。


なぜなら、そこにはフン帝国本隊の冬営地(牧場)が置かれていたからだ。遊牧民にとって冬営地(牧場)こそ御家で本拠であり、家財・備蓄はそこにあるのだ。当然、凄まじい激戦になった。だが、機動戦を本分とする騎馬隊を主力とするフン帝国は敵本土に隣接する拠点の防衛には不向きだった。伊稚斜単于率いる戦闘民族フン族は20年間の抗戦で凄まじい損害(一説には漢の人口の1/3が死んだという)を漢帝国に与えた後、歯噛みしながら


本来牧地(天然牧場)である外モンゴルに新冬営地(牧場)を建設するために撤退していった。


日本建国の端緒ともなった2100年前の漢帝国の韓半島侵攻はこのフン族に内モンゴル地区に変わる冬営地(牧場)・交易地を与えないために行われた攻撃的な先制防御作戦だった。その後、内モンゴルととも河西回廊の商業ルートを失ったフン族は東胡(モンゴル族)、月氏(アーリア系遊牧民、今のアフガン・タジク人)、丁令(トルコ族)に離反され、本来ただの牧地にすぎない外モンゴル地区に閉じ込められてしまったために2050年前に漢帝国と停戦協定を結ぶ。が、2000年前に新王朝の王莽が停戦協定を破ってフン帝国に内政干渉を試みたため戦争が再開される。


 始末に困った後漢の創始者、光武帝は一計を策す。


フン族本来の根拠地である、内モンゴル地区中部とオルドス地方の返還を条件にフン帝国の武将たちに漢帝国側に寝返るよう政治工作を行ったのだ。これは大成功した。たちまちフン族は分裂した。再開された「漢・匈奴戦争」は実質的には匈奴の内戦に転化した。このとき、漢帝国側に寝返った側を「南匈奴」といい、モンゴル高原に残ったフン帝国本隊を「北匈奴」という。1900年前、ついに後漢帝国から全面的軍事支援をうけた「南匈奴」軍がモンゴル高原に残ったフン帝国本隊を撃破、西方草原に駆逐しついに300年間続いた「漢・匈奴戦争」は後漢帝国の全面勝利の形で終結した。だが以後、


「南匈奴」は皇帝直属の同盟部族「五部匈奴」として山西省に移住しなんと漢帝国「国内」に居座ってしまったのだ(笑)。


これは困った(笑)。効き目の強い薬はたいがい副作用も強烈なもんだ。後漢帝国が強力な間は良かった。反乱鎮圧や外征の時、「五部匈奴」はここぞという時に投入される「精鋭部隊」として使われた。また、「三国志」の時代には多くのフン族が衛青・霍去病と同じように傭兵として登用された。


一番有名な例では呂布がそうだろう。


呂布はハチャメチャな男だったがそれでも自分は漢族だと思ってたし少なくとも漢族になろうとした。でも、「五部匈奴」は違った。自分たちを征服した漢族を文明人として「畏怖」している間は「精鋭部隊」として漢の皇帝に仕えた。しかし、「三国時代」そして狂気そのもの「八王の乱」の「馬鹿騒ぎ」を見て「畏怖」が「軽蔑」そして「蔑み」に変わったとき集団心理にコペルニクス的転換が起こった。


「五部匈奴」は漢族に「なる」のではなく、漢族を「支配」することを決意した。


1700年前「八王の乱」でチャイナの中枢機構がマヒ状態になっている時、「五部匈奴」は首長劉淵を「大単于」に載戴し、5万騎の騎兵隊を編成すると一挙にチャイナの首都・洛陽へと殺到した。一発だった。だが、戦闘民族「五部匈奴」は高い戦闘能力を誇ったが残念ながら肝心要の統治する能力が無かった。


人の殺し方わかっていても人の生かし方わかってなかったわけだ(-_-;)。さいてーー。


後は地獄のような大混乱が始まった。国境は軍隊が内戦に全面投入されてしまったのでガラガラとなりフン族だけでなくモンゴル族、アーリア族、トルコ族、チベット族が我も我も押すな押すなとチャイナ国内に殺到した。核戦争も無いのに、


ヒャッハー・DQNのパラダイス「リアルマッドマックス」「リアル北斗の拳」の世界が出現してしまった訳だ(黒笑)。


チャイナ史ではこれを「五胡十六国時代」と呼ぶ。チャイニーズが自分のドジで苦しむだけならそれはそれでいいのだが何の関係も無い日本もこの「地獄の馬鹿騒ぎ」におもいっきり巻き込まれてしまったのだ(怒)。それは、次回語ろう。


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 次いで5日後に書いたのが「日本法制通史概論」第14弾。「国家群生編」。俺的にはここが本稿の第二のポイント論考。コレ分かってない人多いかんね(-_-;)。「真面目」にやろうぜ、ぷんぷん(笑)。〔2016年01月25日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0028編集する
2016年01月25日14:47全体に公開 みんなの日記 2 view

 さてと、話を続けますか。前回、「チャイナで民族大移動が始まった」ってとこまでいった。今日はそれがどう我が国に波及したのかという話しをします。いまから2400年前、チャイナ戦国七雄のひとつ燕王国にいた殷王朝の末裔が韓半島の平壌に商業コロニー(箕子朝鮮)を置いたとき極東(チャイナより東の地域)の歴史時代に入った。異民族の真っ只中に作られた先進民族の商業基地。


箕子朝鮮はいまでいえばシンガポールのようなものだったに違いない。


だか動乱はやってくる、いまから2100年前、箕子朝鮮を乗っ取った衛氏朝鮮が始まった「漢・匈奴戦争」において匈奴(フン)帝国側につくのを恐れたチャイナ・大漢帝国は韓半島に全面侵攻し漢四郡(楽浪・真番・臨屯・玄兎)を置く。ここでみんなに覚えて欲しいことがある。それは


国家は群生する


という世界史の法則だ。国家機関は本質的に「武力装置」であり双刃の刃だ。良いときには「内に警察力、外に防衛力」となりえるが、同時にいつでも「内に弾圧力、外に侵略力」になりえる訳だ。こういう国家がひとつできると「それを持たない人たち」にとっては「途轍もなく大きな脅威」となる。とくに、古代ではなおさらだ。戦争に負ければ男は皆殺しにされ女・子供は全て奴隷として売り飛ばされちゃう「陰惨」な時代だ。だから、ひとつ


国家機関ができるとすぐ対抗する国家機関が多数設立されるのは必然なのだ。


つまり「国家は群生する」のさ。最新では20年前にバルカン半島で「群生」している。箕子朝鮮のような商業コロニーなら別に脅威なんぞ誰も感じない、シンガポールの軍事侵攻を恐れている国などどこにも存在しないのと同じ様にね。たが、チャイナ・大漢帝国では話が別だ。なにしろ当時ぶっちぎりの世界最強国。当然、この時も国家は群生した。


そのひとつが我らが祖国「日本国(当時はヤマト国)」だったわけだ。


幸いチャイナ・大漢帝国の主目的が対フン戦争上の拠点確保だったから平壌コロニー(楽浪郡)さえ攻めなければトラブルにはならなかった。おかげで北は満州から東は日本の東北地方まで「Lの字」状に4つの民族が9つ国家(もしくは部族制都市国家連合)を数珠つなぎにする「奇妙な均衡状態」ができあがった。2000年前に極東に存在した9つの国家(もしくは部族制都市国家連合)は以下の通り


� �扶余王国        扶余系の本国、君主も国民も扶余族

�◆�高句麗王国       扶余王国から独立、君主は満州族、国民は扶余族と満州族が半々

��、平壌コロニー(楽浪郡)  チャイナ領、君主は漢族、国民は漢族と扶余族が半々

�ぁ�馬韓諸国        扶余系都市国家群、君主層は扶余族、国民の大部分は扶余族で漢族が少々

�ァ∧朶攴�国        九州系都市国家群、君主層は日本人、国民は日本人と扶余族が半々

�Α�辰韓諸国        出雲系都市国家群、君主層は日本人、国民は日本人と扶余族が半々で漢族が少々

�А�九州諸国        日系都市国家群、君主層も国民も日本人

�─⊇弍晴�国        日系王国、君主も国民も日本人

��、大和国         現・日本国、当たり前だか君主も国民も日本人


まったく、けったいな状態になったもんである。どうも匈奴族と満州族との間には当時連絡があったらしく歴史上の動きが連動している。「同盟関係」があったかどうかは微妙だけどね。そして、均衡状態が最初に崩れたのは1800年前。大和国が出雲王国を撃破、九州諸国を制圧して列島の統一に成功する。


そして、困ったわけだ。「半島どうしよう(-_-;)?」と。


日本人(当時の対外名称は「倭族」)は前述のように建国以前に1万年の時間をかけて「集住と混血」によってできあがった「民族」なのだ。扶余族の大量流入は避けたかったに違いない。軍事的制圧は簡単だった、ってか九州系と出雲系とはいえすでに完了していた。他の荒っぽい国なら扶余族も漢族も満州族も「皆殺し」にして土地を独占していただろう。アメリカ人みたいにね。でも、日本人はしなかった。これはとても「名誉」な話で恥じ入る必要はまったく無い。ま、おかげで今に続く「韓国問題」という厄介ごとに取り付かれちまったわけだけどね(-_-;)。そして、大和国は悩みに悩んだすえに韓半島問題を「ほっぽっとく」事にした。1800年前に極東に存在した7つの国家(もしくは部族制都市国家連合)は以下の通り


� �扶余王国        扶余系の本国、君主も国民も扶余族

�◆�高句麗王国       扶余王国から独立、君主は満州族、国民は扶余族と満州族が半々

��、平壌コロニー(楽浪郡)  チャイナ領、君主は漢族、国民は漢族と扶余族が半々

�ぁ�馬韓諸国        扶余系都市国家群、君主層は扶余族、国民の大部分は扶余族で漢族が少々

�ァ∧朶攴�国        九州系都市国家群、君主層は日本人、国民は日本人と扶余族が半々

�Α�辰韓諸国        出雲系都市国家群、君主層は日本人、国民は日本人と扶余族が半々で漢族が少々

�А�大和国         現・日本国、当たり前だか君主も国民も日本人


「ほっぽっと」かれた韓半島にはその後列島統一に伴う微妙な変化が現れる。まず、本国を撃破されてしまった辰韓諸国で「扶余族を名乗った」漢族・金氏と日系の昔氏との間で王(尼師今)位をめぐる暗闘が始まる。無理も無い、昔氏はいうなれば本国をナチに占領された「ベトナムのフランス人」みたいな状態だ。弱気にもなるわな。そして運命の1700年前を迎えるわけだ。そのとき何が起こったのか?それはこの「奇妙な均衡」を極東にもたらしていた


「防衛的なチャイナ軍」の本国への撤退だった。


考えてみれば当たり前だろ。フン族から国土を守るために駐留してたのに、国土ところか首都陥落しちゃったんだから。みんな、あわてて首都奪回のために全軍転進していった。そして平壌コロニー(楽浪郡)は軍事的にガラガラになった。建国より400年間、平壌コロニー(楽浪郡)を攻め続けた高句麗王国はスッとあっけなくコロニーを無血占拠した。1700年前に極東に存在した6つの国家(もしくは部族制都市国家連合)は以下の通り


� �扶余王国        扶余系の本国、君主も国民も扶余族

�◆�高句麗王国       扶余王国から独立、君主は満州族、国民は扶余族と満州族が半々で漢族が少々

��、馬韓諸国        扶余系都市国家群、君主層は扶余族、国民の大部分は扶余族で漢族が少々

�ぁ∧朶攴�国        九州系都市国家群、君主層は日本人、国民は日本人と扶余族が半々

�ァ�辰韓諸国        出雲系都市国家群、君主層は日本人と漢族、国民は日本人と扶余族が半々で漢族が少々

�Α�大和国         現・日本国、当たり前だか君主も国民も日本人


そして、それは「平和」を求めたはずの俺たち日本人が再び巻き込まれてしまった「長い・長い・ながーーーい」戦争の前奏曲となった。ってことで今日はここまで。とほほ。


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 次いで2日後に書いたのが「日本法制通史概論」第15弾。「韓国建国編」。我ながらハイペース(笑)。〔2016年01月27日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0029編集する
2016年01月27日00:11全体に公開 みんなの日記 1 view

 さてと、話を続けますか。前回、「韓半島でチャイナ軍が撤退したって」ってとこまでいった。これで日本とその属領である半島南部は凶暴な騎馬民族「満州族」と直接境を接することになってしまったわけだ。ここから始まる半島をめぐる「日・満戦争」は1100年前に「最終決着」がつくまで断続的に実に600年間にわたって続く「長い・長い・ながーーーい」戦争になった(ToT)(ToT)(ToT)。これからその話をしよう。戦争開始直前の1700年前に極東に存在した6つの国家(もしくは部族制都市国家連合)は以下の通り


� �扶余王国        扶余系の本国、君主も国民も扶余族

�◆�高句麗王国       扶余王国から独立、君主は満州族、国民は扶余族と満州族が半々で漢族が少々

��、馬韓諸国        扶余系都市国家群、君主層は扶余族、国民の大部分は扶余族で漢族が少々

�ぁ∧朶攴�国        九州系都市国家群、君主層は日本人、国民は日本人と扶余族が半々

�ァ�辰韓諸国        出雲系都市国家群、君主層は日本人と漢族、国民は日本人と扶余族が半々で漢族が少々

�Α�大和国         現・日本国、当たり前だか君主も国民も日本人


だ。不幸中の幸いというか、直後に満州族が鮮卑(モンゴル系サビル人)族と遼河流域をめぐって争い始めてくれたので戦争はすぐには始まらなかった。ラッキーーー。今の白痴同然の「日本国民」とは違い、当時の日本人は「皆殺し戦争」終結直後で国家安全保障に関して頭が物凄くクリアだった。たとえ、何百年かかろうとも戦闘民族が一度決めた戦略目標を放棄することはありえないという事を皆良く知っていた。そして、


戦争が不可避であることも・・・・・・。


 日本側はこの時間的余裕を使ってすぐ「体制固め」と「戦闘体制」の構築を急いだ。まずは、何といっても国内固めが先決である。すぐさま反抗を続ける熊襲国(現、熊本県)へ倭武尊(ヤマトタケルノミコト)が率いる官軍選りすぐりの精鋭部隊が向かった。


美少女に化けて敵城に潜入し一挙に敵将を討ち取る「元祖忍者作戦」が行われたのはこのときの話。


熊襲国の同盟国だった隼人族(現・鹿児島県西部)は熊襲国討滅をみてすぐ降伏してきた。ついで軍装も解かず倭武尊はそのまま東国へと向かった。各地の国造・県主に直接会いこれから行われる外征の必要性を訴え協力を要請し「体制固め」を行った。おそらく、倭武尊はそのまま官軍を改変して新編成された


「国軍」を率いてそのまま半島へと出陣するつもりだったのだろう。


だが、無理の連続がたたったのか出陣直前に倒れ崩御なされてしまう。1650年前あとを継いだ第十三代成務天皇は兄が新編成した国軍を韓半島に送り全面的な「軍事介入」に踏み切る。そのとき


「韓国」は建国されたのさ。


之を「三韓諸国」と呼ぶ。日本は侵攻した国軍を背景にゆるく結合していた3つの都市国家群を統一した軍事指揮権下に大胆に再編成した。最も大きな点は弁韓諸国を実質的に解体したことだろう。領土の7割を馬韓諸国に割譲し、残った3割を国軍が直接掌握し日本領に編入した。之が「任那日本府」だ。続いて辰韓諸国における漢族・金氏の支配を認める代わりに満州族との断交を要求した。金氏はこれを認め「新羅国」が建国された。直接、満州族高句麗王国に国境を接していた馬韓諸国にはもっと大胆で徹底した策がとられた。はっきり書くね。


日本は馬韓諸国を乗っ取った。


それまでの君主層をパージし日本人を直接、君主として送り込んだ。馬韓諸国への領土の割譲はこれへの償いであるに違いない。日本人を君主として馬韓諸国+弁韓諸国で「百済王国」が建国された。作戦は成功した。1630年前、百済王国軍は平壌へ侵攻し高句麗王国の故国原王を討ち取る大勝利を収める。同時に韓半島内の日系住民に対する日本列島への退避が勧告された。


この時期から日本国内に多数の「帰化人」が現れるが大部分はこの勧告に従った日系住民だ。


アホな赤学者が「渡来人」なんて呼んでるけど大笑い(^〇^)。かれらは半島で戦争が始まったので国内に帰ってきた混血を含む「引揚者」であり正しく「帰化人」だ。赤学者は「日本語」が理解できない。哀れな奴らだ、少し「国語」の勉強でもしてみたらどうだ(^〇^)?さて、1650年前に極東に存在した5つの国家は以下の通り


� �扶余王国        扶余系の本国、君主も国民も扶余族

�◆�高句麗王国       扶余王国から独立、君主は満州族、国民は扶余族と満州族が半々で漢族が少々

��、百済王国        旧馬韓諸国。君主は日本人、国民の大部分は扶余族で日本人と漢族が少々

�ぁ⊃畦綛顱        ゝ戝ご攴�国。君主は漢族、国民の大部分は扶余族で日本人と漢族が少々

�ァ�大和国         現・日本国、当たり前だか君主も国民も日本人


大分減ってきたね(-_-;)。生き残るのは結局、二つだけ。冷酷極まりない力だけが支配する国際条理における極東サバイバルゲーム。この過酷な試練を我らが父祖たちはどうやって生き延びてきたのか。その話はまた次回語ろう。


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国史最初の「ヒーロー」倭武尊(ヤマトタケルノミコト)登場!(笑)。「その5」はデーター量の関係から今日はここまで(笑)。まだまだ続きます(笑)。その話はまた次回語ろう。


PS、このサイトに嵌まってますのカウンターが「フルコン・ガイド8」以来またズレてた(ToT)。ここから修正しますm(_ _)m。



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