〔緊急連載〕ロシア東欧史概論対露アウトライン・ダイジェストその15{かっ飛びつまみ食い編その13}。さて、急ごう。ファイトo(-_-)o。前回、十三世紀中ごろにおける「モンゴル帝国」の「分裂」と「チャイナ併合」が「同時進行」した事について、年表を用いて説明した。さて、いよいよ、話は「帝国史」を離れて「ロシア史」に繋がる「北西モンゴル史」に入ります。直前チャートは以下の通り
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62、アリクブケ・カーンの降伏後、オゴタイ家の棟梁カイドゥ・カンが簒奪者クビライに対してエミルにて挙兵。
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63、クビライは事態収拾のために中央アジアを押さえるチャガタイ家の本拠地イリ渓谷に代理人のバラク・アカを送り込む。
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64、バラク・アカはチャガタイ本家のムバラク・シャーの権力を簒奪。カイドゥ・カンとジュチ・ウルスの代表者とタラスで会盟し、本来大カーン直属の要衝マーワラーアンナフル(シル川とアム川の間の大オアシス地帯・現ウズベキスタン)を3家で分割しチャガタイ汗国を建国。
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65、バラク・アカは40000騎の大軍を率いてフレグ・ウルスに進攻するもフレグ・ウルスのアバガ・カンに撃破され、直後にカイドゥ・カンに暗殺される。
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北西モンゴル史では「アゼルバイジャン戦争(フレグ・ベルケ戦争)」の経緯を挿入するので上記を下記に「修正」します。修正稿は以下の通り。
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62、右翼諸子王国の支持で即位したアリクブケ・カーンが簒奪者クビライに降伏。
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63、フレグ・ウルスにてフレグ・カンが急死。クビライ・カーンの命令でアバガ・カンが当主につく。
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64、クビライ・カーンがフレグウルス側についた事を怒ったベルケ・カンは戦争を続行するも事故で陣没する。
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65、ジョチ・ウルス軍が本土に撤退し、バトゥの孫モンケテムルをカンに選出する。
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66、オゴタイ家の棟梁カイドゥ・カンが簒奪者クビライに対してエミルにて挙兵。
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67、クビライは事態収拾のために中央アジアを押さえるチャガタイ家の本拠地イリ渓谷に代理人のバラク・アカを送り込む。
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68、モンケテムル・カンがカイドゥ・カンと同盟を結び10000騎の援兵を送る。
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69、不利を察したバラク・アカはチャガタイ本家のムバラク・シャーの権力を簒奪。カイドゥ・カンとジュチ・ウルスの代表者ベルケチェルとタラスで会盟し、本来大カーン直属の要衝であるマーワラーアンナフル(シル川とアム川の間の大オアシス地帯・現ウズベキスタン)を3家で分割し簒奪者クビライに叛旗を翻す。
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70、バラク・アカは40000騎の大軍を率いてフレグ・ウルスに進攻するもフレグ・ウルスのアバガ・カンに撃破され、直後にカイドゥ・カンに暗殺される。
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上記見たとおり、帝国に東西分裂の主導者はクビライ・カーンその人だが、「反クビライ」を西モンゴル帝国で主導したのは明らかにジョチ・ウルスのモンケテムル・カンだった。だ・が、日本語の資料はこれを悶絶デタラメ解説で隠蔽する(怒)。
「ジャハーン・グシャー(世界征服者)原理」すな(激怒)!
この時点でジョチ家とトゥルイ家は明白に「激しく対立」しており、中央アジアのマーワラーアンナフル(シル川とアム川の間の大オアシス地帯・現ウズベキスタン)をクビライが「奪回」すればジョチ・ウルスは確実に「滅亡」していた(-_-#)。なにが「ケルミシュ・アガの和平」だよ(怒)。馬鹿にするのも大概にせい(怒)。怒ってもしょうがない、話を進めよう。ここから、かなりびみょーな展開に入るからね(-_-;)。
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71、カイドゥ・カンはチャガタイ家の傍流ニグベイ及びブカ・テムルを傀儡にチャガタイ家を乗っ取り中央アジアにカイドゥ・カン国を建国。
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72、クビライ・カーンが東モンゴル帝国・ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス(ダヤン(大元)・ウルス)の建国を宣言。
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73、クビライ・カーンの命令で北平王ノムガンがチャガタイ家の本拠イリ渓谷へ侵攻。首都アルマリクを占領する。
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74、クビライ・カーンの命令で左丞相バヤンが南宋に侵攻、首都・臨安陥落。ダヤン(大元)・ウルスが事実上チャイナを併合。
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75、モンケテムル・カンの示唆でイリ渓谷のノムガン軍でシリギによるクーデター発生。ノムガンと右丞相アントンが反乱軍に捕囚され、ジョチウルスに移送される。
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76、崖山の戦いにて南宋艦隊壊滅。南宋亡命政権滅亡。
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77、モンケテムル・カンが死去。
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78、後ろ盾を失ったシリギらが北伐してきた左丞相バヤンに降伏。
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俺にとって「とっても不思議」なのがシリギ降伏後、クビライが中央アジアの回復つまりマーワラーアンナフル(シル川とアム川の間の大オアシス地帯・現ウズベキスタン)の奪回に動かなかったことだ。何故なんだろう?モンケ・カーン程ではなくともクビライ・カーンも「ジャハーン・グシャー(世界征服者)原理」の信奉者だったはずだ。クビライ旗下のモンゴル本国と満州、河西回廊の戦力は総動員すれば少なくとも30万騎の兵力を動員でき、派出兵力が半分としても15万騎、民族大移動式遠征軍だったジンギス遠征軍やバトゥ遠征軍の倍以上だ(-_-;)。モンケテムル・カンが死去した時点でジョチ・ウルスと「講和」しておけばカイドゥ・カンなど物の数ではなかっただろう。また、カイドゥと同盟できればジョチ・ウルスの「解体」も用意に実現できたに違いない。なのに、
クビライは「東西統合」を放棄して狂ったように「南」へ「南」へと攻め込んだ。
日本、ミャンマー、ベトナムはては「赤道」超えてジャワ島にまで派兵する始末(-_-;)。海洋進出してセラミック・ロード(別名マリンロード、インド洋航路)を制覇したかったというのは「答え」にならない(-_-#)。なぜなら、「牧民保護」というモンゴル帝国の建国の「原義」からすれば、そんなもの「必要」ないし、逆に「東西統合」がもたらすシルク・ロード(内陸交易路)の安定的支配は旗下に在る「遊牧騎士」たちの生活向上と戦力増強に直接繋がるからだ(-_-;)。「東西統合」の後に「海」へ出ればよいだけではないか?あまり書かれないが「中期モンゴル帝国史」最大の「謎」はここにあるのだが、北西モンゴル史と直接は関係ないので先に進む事としよう。
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79、モンケテムル・カン死去を受け右翼の統率者ノガイと左翼当主コニチが合議でモンケテムルの同母弟トデモンケをカン位に付ける。
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80、トデモンケ・カンが捕囚していた北平王ノムガンと右丞相アントンをダヤン(大元)・ウルスに送還する。
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81、トデモンケ・カンの就位と親ダヤン(大元)・ウルス政策に不満なモンケテムル・カンの遺児たちが首都サライに侵攻、トデモンケ・カンを廃位し傍流のトレブカをカン位に付ける
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82、クリミアの領主でトゥルイ家の血を引くケルミシュ・アガの孫であるモンケテムル・カンの5男トクタがドナウ下流域(現ルーマニア西部)を支配するノガイとを味方につけトレブカ・カンを奇襲してカン位を奪う。
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83、ジョチウルス西部で対外遠征を続行していたノガイとトクタ・カンが対立。トクタ・カンはノガイの元でルーシーで覇権を握りつつあったウラジミール大公ドミトリー・アレクサンドロヴィチの元に弟トデゲンに兵を与えて送り、ウラジミールを占領、モスクワ等の諸都市を焼き払い、アンドレイ・アレクサンドロヴィチをウラジミール大公位に付ける。
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84、ノガイはフレグウルスのガザン・カンに調停を頼むも断られ、開戦したが逆転負けして敗死する。
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対外進出主義者ノガイは「粛清」された。ここから、ジョチ・ウルスの「全盛期」が始まるのだがいつの時代も「全盛期」とはその国の「衰退期」の始まりを表している。「全盛期」と「衰退期」の「ハザマ」でロシアは小さく北の大地に「産声」をあげた。少し時間を遡って「産声」をあげた「ロシア」に降りかかる「大いなる試練」の物語はまた次回語ろう。
PS、やっても、やっても、終わんねーーーよーーーー(ToT)(ToT)(ToT)。ようやく本題に入りかけてるがすでに原稿用紙150枚近く書いてる(ToT)。当ブログ最大の「連載」になることは確定済み(怒)。しかも、書けば書くほど「書かねばならない」新テーマが間欠泉のように噴出してきて、新幹線並みのスピードでゴールテープが遠のいていく(ToT)。くそ、一体全体どんな展開なんだよ(-_-#)。神様いけずーーーーーーーーー(ToT)(ToT)(ToT)。
PSのPS、あと、INF問題について追加コメント。アメリカのINF破棄の主因はイスカンデル・システムだと書いたが、これについては産経の古森義久さんの分析の方が当を得ている。つまり主因は「チャイナINF非加盟」と「ジャパン非核化」との「アンバランス問題」であるということ。ここに「訂正」する。これも時間が出来次第「軍事史的現状分析」でやるよ。「早期警戒ネット不在問題」ももっともっとアピールせんといけないしね(-_-;)。とほほ。
おまけにみくしー検索かけてみました。
「全盛期」
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