先日、阿藤海さん追悼公演「いつかまた逢える」という舞台を観てきました。
登場人物の1人が「TV局を辞めたのは、バラエティ番組が嫌だった」というシーンが有り、「得たり!」とばかり、思わずウンウン頷いておりました(*^^*)
実は、所謂「バラエティ番組」なるものが嫌いです。
人気芸人を起用すれば、視聴率が期待でき、かつ低予算で作れるので、TV局にとっては重宝な存在なのでしょうか。
全てがそうとは言いませんが、今まで出先などで観た限りでは(自分では観ない)、「ネタ」と称する、どこが「芸」なのか分からない中身の無い事をダラダラやっていたり、「いじる」と称して趣味の悪い質問をしたり囃し立てて喜ぶ…
過去に私が観た限りでは、「バラエティ番組」とはこんなのばっかりでした。
「お笑い」とか「ネタ」と称すれば何言っても許される、それを批判するのは、「ネタ」を理解しない奴が悪いといった思い上りを感じます。
日常の中で、「いじる」側の人が、相手が気分を害した時に、「怒るなよ〜ネタだろネタ!」といったような台詞を口にするのを耳にした事が有る人も多いのではないでしょうか。
そうした空気を作り上げているのは、やはりこうした番組側でしょう。
こんな低レベルの「芸」でしか笑いをとれないような自称芸人はしょせん三流だろう…といった諸々も思いますが、一番言いたいのは、この「いじる」→「周りが笑って喜ぶ」という構図が、苛めの構図と同じだと気づいているのか?という事です。
苛めにも暴力によるものや、無視によるものなど色々有りますが、何かをあげつらって囃し立てる→槍玉にしてバカにする→周囲のその他大勢の中身の無い連中が調子に乗って便乗する…
こういう流れのものも非常に多いと思います。
よく苛めが表面化した時に、苛めた側が「遊びだった」と言いますが、この意味で、初っ端は正にその通りだったのでしょう。
それに対して、「こんなのおかしい、遊びの訳は無い、言い訳だ」と、したり顔で断じるのは、幸いにしてその渦中に入った事が無い人が想像だけで言っているのでは?
強いヤツに苛められるのも怖いですが、それより怖いのは、その他大勢連中が便乗する事によって、味方がいない=居場所が無いという気にさせられる事です。
「居場所」に付くのが「このクラスには」であるうちはともかく、それが「どこにも」とか「世の中には」となる前に気づければ良いのですが…
つまり、苛めとは「苛めっこ」という一部の特殊な人種によって行われる特殊な行為ではなく、「便乗するお調子者」と「遊びでなくなっている事に気づけない」事によって、徐々に積み重なって出来てしまうもの…というのが私の考えです。
であれば、「苛めはダメだ」といくら言ってみたところで、それが「苛め」だと気づいていないのだから、止めようもないのでは?
では、何故「囃し立てて」「便乗する」事が苛めだと気づけないのか?
それは、同じような行為を「ネタ」と称して垂れ流しているバラエティ番組の影響でしょう。
TVの中で、面白そうにやっていて、周りが皆喜んでいるのなら、俺もやってみよう、同じ事やって悪いと思わなくても無理は有りません。
TVの中の事は、いじられる側もいじる側も仕事の一環ですから、まぁ良いでしょう。
悪趣味だとは思いますが。
同じ人が制作している訳ではないにしろ、こんな番組を放映している局が、別の番組で「苛めはいけない」だの言っても、お前らが言うなとしか思えません。
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