7月18日、日野原重明先生は逝去されました。享年105歳。
亡くなる数カ月前まで現役のの医師として患者を診続け、東京の聖路加国際病院での名誉院長の他、5つの財団法人のトップを務めておられました。
お元気で前向きの生き方は、私の終生のお手本であり、ミクシィーの日記でも何回か取り上げました。
その中から、先生の講話集「私はなぜ医者になったのか」を要約抜粋しながら紹介します。
明治44(1911)年10月4日、私は山口県にある母の実家で次男として生まれました。当時の父の給料は非常に少ない上、男3人、女3人と子供が多いため、経済的にはとても貧しく、食べ物も着る物も質素な暮らしでした。冬になると、6人の子供と両親が一つのこたつで暖をとりました。
自転車に乗っている友達を見て、「僕も自転車が欲しいな」と思っても叶えられない、そんなつつましい生活でした。けれども、そんな生活の中で、少しの物を兄弟姉妹6人で分かち合う気持ち、ちょっとした物を与えられてもありがたいと思う気持ちが育まれました。
また、牧師の家庭でしたから、毎朝、聖書を輪読し、お祈りしてから、ご飯をいただいていました。
こうした子供時代の質素な生活が、感謝する習慣を身につけさせてくれたのだと思います。
私が10歳、小学校4年生のとき、母が尿毒症で痙攣を起こし、危篤状態に陥りました。尿毒症とは、腎臓の働きが落ちて意識がなくなることもある重い病気です。母はもともと慢性の腎盂腎炎という病気を患っていましたし、6回もの出産で腎臓を痛めていたのでしょう。
夜中でしたが、父がかかりつけの小児科医である安永謙逸先生を呼びました。私は、母が死んでしまうのかと思い、とても悲しくなりました。
安永先生が注射をしてしばらくたつと、ふっと痙攣が止まり、母は意識を回復しました。そのとき「ああ、安永先生にお母さんが助けられた」と感謝の気持ちをもったのです。
安永先生が注射をしているのを見るのが恐ろしくて、部屋の隅に行き「どうか、私の好きなお母さんが死なないように助けてください」と心の中でお祈りをしたことを、今でもはっきり覚えています。
このとき、医者とは、大切ないのちを預かり、そのいのちを助けるために夜中でも駆けつけてくれる人だと子供心にも感じ、自分も安永先生のような医者になればいいな、というかすかな思いが生れたのではないかと思います。
母は「安永先生は家が貧しいことを知っているからけっして往診料を取らない。申し訳ない」と言っていましたが、安永先生は「貧しい牧師の家庭だからこそ、代金など求めず喜んで行くのだ」と考えていたのでしょう。そんな先生の誠実な心が、子供の私にも伝わったのです。
世の中には、いろいろな職業があります。それぞれが大切な職業ですけれど、医者や看護師といった医療従事者の仕事は、ただ金を儲けるためだけのものではありません。人のいのちのために全力を尽くす職業です。これは、英語でいえば「プロフェッション」です。
プロフェッションというのは、神様に「私はこのことに生涯を捧げます」と誓い、約束することです。プロ野球などのプロと同じ言葉ですが、自分の職業を通して神に仕え、人々のために尽くし、自分の身を犠牲にする覚悟をもった人のことではないかと私は考えています。安永先生はプロの鑑(かがみ)であり、私の前に現れた最初の人生のモデルだといえるでしょう。
私は京都大学医学部に合格、本格的に医者を目指すことになりました。そんな時、アフリカで医者として活動したシュバイツァー博士が書かれた「水と原生林」という本を読み、彼がどんな動機で赤道直下のアフリカへ行ったのかを知りました。
シュバイツァー博士は、若くして教会のオルガン奏者になるという音楽の天才でした。
音楽だけではなく、神学や文学にも秀でていました。
ある五月の朝、若きシュバイツァー博士がふと窓の外を見ると、緑の葉は美しく輝き、小鳥がさえずっていました。このとき彼は、
「自分は好きなパイプオルガンを弾き、勉強もできて、とても幸福だ。でも、この幸福を自分一人で独占するのは問題だ。そうだ、30歳までは音楽や神学、文学を精いっぱいやり、30歳になったら人のために尽くす仕事をしよう」と決意したのだそうです。
そして、アフリカの赤道直下、ランパレネの宣教師が「住民がハンセン病、結核、マラリアなどにかかっているのに医者がなくて困っている。医者に来てほしい」と訴えているのを知ったとき、人のために尽くすには医者になるのが一番よいと決心しました。
30歳で医学部に入り、38歳で医者になったシュバイツァー博士は、看護を学んだ夫人と二人でランパレネへ赴きます。有名なオルガン奏者になるのも大学教授になるのもなげうち、シュバイツァー博士は人のために尽くすことを選んだのです。
シュバイツァー博士は、こんなことを言っています。
「どんな条件の下に生きていても、人間が真の人間性をもって、他の人間に働きかける」、
「人々のために自分の才能を捧げることが、人間として本当の生きがいである」。
人は一人では生きていくことができません。お互いに助け合ってこそ、生きていけます。いくら力があっても、一人では社会は成り立たないのです。
日野原先生は言われます。
「医者になるときシュバイツァー博士は、自分の時間をすべて患者のために捧げようと決心しました。彼は、自分の時間は皆のための時間である。自分のいのちは皆のためのいのちであると感じ、過酷な環境の下へ飛び出していったのだと私は考えています。
自分のもっている才能や財産を人の役に立つように使って、皆が喜ぶような働きをするのが、人間のいちばんよい生き方ではないでしょうか」。
日野原重明先生の生き方、医師としてのご活躍の原点です。
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