「東海道」と言えば、一般的には太平洋沿いに東京と関西を結ぶ街道や鉄道を指しますが、道の名称であるのと同時に、古代律令制における五機七道という行政区分の一つでもあります。
これは、都からの役人らが各国を通過するルートがその根拠なので、概ね放射状に分かれています。
都を中心とした大和、山城、和泉、摂津、河内が五ヶ国が機内(五畿)、その周囲は時計回りに北陸道、東山道、東海道、南海道、西海道、山陽道、山陰道(七道)。
余談ですが、明治になって当時の蝦夷地を日本の行政区分に組み込む際、他と同じように「県」が置かれた時期も有りましたが、前述の行政区分の×海道に「東」「南」「西」は有っても「北」が無かったた事から、北海道という名称が生まれたようです。
さて
街道としての東海道ですが、現在とは異なり、米原経由ではなく鈴鹿を越え、桑名から船で伊勢湾を渡り、そして三浦半島の走水からまたまた船で上総へ渡っていました。
こういう重要なルートですから、数えきれない程の人が房総半島と三浦半島の間を渡っている筈ですが、中でも日本武尊、源頼朝、里見義実は欠かせません(頼朝は真鶴発ですが)。
日本武尊は半ば伝説だし、里見義実はやや格落ちする感も有りますが、千葉県民としてはやはりスルーする訳にはいかないでしょう。
下総の結城氏朝らと、滅亡した鎌倉公方家の遺児を擁して幕府の大軍と戦ったものの、これに敗れ、少数の家臣とともに三浦半島から安房国に渡り、やがてこれを平定した…とされています。
いや、されていました。
過去形となっているのは、源氏であり結城の落武者里見義実という事が最近疑われてきているのと、更には実在したかどうかも定かではないとか。
里見氏自体は現実に安房や上総に覇を唱えた戦国大名ですが、その出自は不明な事も多いようです。
これで日本武尊、里見義実の2人は存在が不確かという事になりますが、残る源頼朝は正真正銘の大物です。
頼朝と言えば日本史上屈指の英雄ですが、弟義経を苛めた意地悪なヤツみたいな印象を持たれがちです。
流人として昼行灯みたいな立場だったのが、準備不足のまま急遽旗揚げせざるを得なかった石橋山の戦に敗れ、安房に逃れます。
ここで瞬く間に千葉氏や上総氏ら房総の諸勢力を味方につけ、安房入りから一月半ほどで、大軍を率いて鎌倉へ入りました。
つまり、頼朝が鎌倉殿となった原動力は、房総に有ると言って良いでしょう。
そうした頼朝に纏わる伝説が県内各地に残っており、習志野市役所近くの鷺沼城も頼朝所縁の城だったようです。
それにしては、日本史の中では、房総における頼朝像は影が薄いよなぁ〜
常々そんな事を思っていましたが、先日こんな本を見つけてきました。
「房総の頼朝伝説」
へぇ〜
耳にした事が有るものも幾つか有りましたが、初耳だった事が殆どです。
しかし、僅かの間によくこれだけ足跡を残したなぁ〜と思えば、やはり後付けの話や、頼朝の使者や軍勢の話も本人とされている事も多いのだそう。
そう言えば、千葉の名峰高宕山から南へ伸びる郡界尾根にも、「お茶立場」という頼朝縁とされる場所が有ります。
ここでお茶を所望したとかなんとか?
詳しい事は分かりませんが、真偽はさておき、伝説というには少々スケールが小さいような…
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