実は、この週末丹沢に行ってこようと企んでおりました(  ̄▽ ̄)
なにしろ、丹沢と言えばヤマビル。
その意味で、安全に歩けるのはやっぱり冬なのです。
しかし寒波襲来につき、或いは降雪となるかも…
…という話を聞いて、止めました(*^^*)
ところが、千葉県に関する限り、寒いながらも2日とも晴天。
予定を中止にした時によく有るパターンで、土曜日はダラダラしてしまいましたが、日曜日は頑張ってお出掛けしてきました。
さて
昨今、歴女とか流行っているそうですが、千葉県民以外の人は、千葉の武士団の歴史など殆ど耳にした事は無いと思います。
教科書的には日本史の主な舞台は畿内を中心に西日本であり、注目度の高い戦国時代でも、関東の戦乱はあまり出てきません。
ま、畿内にしたところで、天下統一の流れと関係が薄いという事か、織豊期以前の事は大して出てこないのですから、北条が滅んだ事で、それまでの戦乱がシャッフルされたような関東の事まで出ないのも仕方無いのかもしれません。
しかし、応仁の乱以降の戦国時代、戦乱続きだった畿内に対して関東が平和だった訳では勿論無く、やはり終わる事の無い戦乱が続いていました。
その中心となったのは、鎌倉公方と管領上杉氏の反目で、更にそれぞれの内訌や、各地の武士団や大名があっち付いたりこっち付いたり…と、敵味方がコロコロ入れ替わる構図です。
よく戦国時代後期の上杉氏、武田氏、北条氏による関東三国史などと言われ、北条氏はともかく、上杉氏と武田氏は関東ではないじゃん!と昔は思っていましたが、この頃、織田氏によって武田氏が滅ぼされるまでは、特に武蔵国や上野国辺りはそれら三勢力の取り合いとなっていましたから、関東三国史というのもなかなか的を得た呼び方なのかもしれません。
この関東の争いも細かく言い出すとキリが無いのですが、千葉県に限って言えば、中世は将門と同じ板東平氏である千葉氏の勢力が強く、戦国時代には源氏である里見氏や武田氏が上総や安房で勢力を誇っておりました。
この武田氏とは、武田信玄で有名な甲斐の武田氏の出で、上総に進出して真里谷城や庁南城を拠点に栄えました。
先だって、古城址の本を見つけて入手していたのですが、日曜日の昼過ぎに木更津に行くついでに、この真里谷城址を見に行こう!と思い立った次第です。
JR久留里線馬来田駅から県道を東へ向かい、途中右折し、山を左手に山裾をしばらく南へ向かいます。
左折して登って行くと駐車場が有りますが、これはこの道の先に有るキャンプ場の駐車場。
なんと、城址の二ノ郭から本郭部分の多くがキャンプ場となっているのです。
時期のせいか、誰もいませんでしたが…
道が広くなったところにクルマを駐め、先ずは四ノ郭跡。
竹藪の中、MTBで走るのに良いかな…と思うようなトレイルを上がって行くと、すぐに倒竹がわさわさ現れます。
そして下が泥濘んできたと思えば、ここには一杯水という「枯れる事の無い」という井戸が有るのです。
この先も道は有りそうでしたが、荒れ気味なのと時間も無いので引き返します。
三ノ郭跡、こちらは竹藪にすっかり占領されてしまったよう。
二ノ郭跡、堀切がはっきりと残っておりました。
本郭跡へ向かうと、まさにそこがキャンプ場で、一段高い位置の「自由広場」は居館などが有ったのでしょう、千畳敷という開けた場所となっています。
うーん…
これだけの大城郭をキャンプ場にするというのは、なんとも複雑な気分…
余談ですが、今日我々が「お城」と聞いて、先ずイメージするのは天守閣でしょう。
しかし、天守閣を備えた城郭が造られたのは戦国後期であり、それ以前の城郭は、砦という言葉でイメージするような、土塁などで防御されたもっと簡素なものだったのでしょう。
現在、城山神社は有るものの、当時から残っているのは、物見台や土塁、堀切などの土の工事部分のみで、建造物は全く残っておりません。
千畳敷から物見台、城山神社と見て、城山を後にしました。
この間、全く人の姿を見る事は有りませんでした。
いや〜
面白かった〜(  ̄▽ ̄)
○○城址公園としてすっかり公園となった城址や、天守閣だけ再現された城址も多いですが(因みに千葉市中心部に有る亥鼻城、現在天守閣が造られていますが、本来の亥鼻城にはこうした物は無かったよう)、こういう竹林に占領されかけた荒城も趣が有って良いものです。
あのキャンプ場が無ければ、もっと良かったですが…(><*)ノ~~~~~
次は、万喜城、峰上城、造海城辺りに行ってみようと思います。
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