さてと、緊急連載「北方領土史」の第12弾。前回、ありとあらゆる「危険と苦痛と苦悩」を自分自身で背負い込んでわれ等が「幕臣・実務派」ついについに100年の夢だった「開国の大業」成し遂げた、ってとこまでやった。今回はその続き。
みんな、聞いてほしい(ToT)。そっから先は聞くも涙(ToT)、語るも涙の(ToT)、のお話の「オンパレード」なのだ(ToT)。ふーー、正直語るの苦痛だわ(-_-;)。はーーー、でも、やっぱり語らねばならない、たとえそれがどんなに苦痛でもだ!まず始まったのは、つまり、「バカ殿達の逆襲」だった(ToT)。ふーー、ホント勘弁してほしいわ(-_-;)。このとき「幕臣・実務派」は将軍位を餌に「尊皇派」を抱き込み、仇敵であることを押して日本のために「ネオ・バカ殿派の一部」を取り込んで文字道理必死に幕政をハンドリングしていた。危ないのは始めから承知、正に「綱渡り」状態だった。他に方法が無かった(-_-;)。そして運命の微風が吹きバランスが崩れた(ToT)。
案の定、「ネオ・バカ殿派」が裏切った
(怒)。開国直後から両「バカ殿派」は急接近。第二ステージである、「建軍」そして「公武合体」による挙国一致体制の確立という「物凄く」大事な時期にだ(激怒)!お・ま・え・ら・なーーーーー(怒)。そしてその逆襲の中心に居たのが徳川四天王の血を引く門閥・井伊直弼だった。はーーー(-_-;)、少し話がずれるけどさここからの話はみんなには少し信じられないだろうけど、はっきり書くね。
これ以降の幕府の人事は「名前(血統)」と「顔(自己宣伝)」だけで決まる
ようになるのだ(ToT)。ぞーーーーー、まぢかい!と思うだろ?大マジなのよ(ToT)。「実績」「人望」「能力」「適性」一切関係なし!ふーーー(-_-;)、みんないきなりは信じられないだろうから「具体例」を明示して、おいおい説明していくよ。話を戻そう。1855年、阿部正弘老中は形勢不利を悟り、井伊直弼が権力を握る前に穏健な「ネオ・バカ殿派」である堀田正睦老中に「老中首座」を明け渡し両「バカ殿派」の分断を図る、が、ここで信じられない大大大トラブル発生。なんと、
1857年、われ等が「幕臣・実務派」のリーダー阿部正弘老中が39歳の若さで急死
してしまったのだ(ToT)(ToT)(ToT)。暗殺の可能性もあるが、おそらく信明老中と同じように「過労死」だろう(ToT)。文字道理の「志」半ばでの死、無念だっただろうに(ToT)。ここから、幕府と徳川家は「アウト・オブ・コントロール」状態となり、ほぼ真っ逆さまに「墜落」していく。メーデー・メーデー・メーデー、メーデー・メーデー・メーデー、メーデー・メーデー・メーデー、たすけてーーー、パイロットじゃなくても叫びたくなるよ(-_-;)。
「無血維新」の目はこれで完全に無くなった。時代は「動乱」へと大きく動いていく。
もちろん、われ等が「幕臣・実務派」はパニック状態だ(ToT)。だたでさえ両「バカ殿派」との抗争で弱体化していた上、敵分断ののためとはいえ下野しており、挙句に全てを統括していた親玉にポックリ逝かれたのだ。まさに目も当てられない状態(ToT)。特に「後継者」の育成が「途中」であり、「幕臣・実務派」の統括を引き継げなかったことだろう(-_-;)。ほんとに致命的だった(ToT)。その「後継者」の名前をこう呼ぶ、小栗上野介忠順と。そして、小栗と幕府の「大いなる悲劇」についてはまた次回語ろう。とほほ。
おまけにみくしー検索かけてみました。
「井伊直弼」
日記 検索 (3件)ひっと。
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