さてと、今年も話をはじめますか。前回、「韓半島古代史の概要」まで行った。では本題である日本最初の外交史について語ろう。2050年前、韓半島は4つの異なる民族が支配するエリアに分かれていた。一番北の旧玄兎郡(今の吉林省南部)には後に女真族といわれる満州系狩猟民族の高麗人が高句麗王国を建国していた。その南の平壌(北朝鮮)にはチャイナの商業コロニー(楽浪郡)がおかれていた。その南(現在の韓国北部、ソウル近辺)には馬韓地域と呼ばれる扶余族系の都市国家の群れが存在してた。そして、最も南には日本の九州諸国と出雲王国が建設した倭族系コロニーが展開していた。当事、日本は3つのエリアに分裂していたがそれぞれの勢力圏拡大に忙しく、協力と対立を繰り返していた。日韓7つのエリアの中で最も栄えていたのは最先進文明のチャイナが設置した平壌コロニー(楽浪郡)であり、最も貧しかったのが満州族の高句麗王国だ。そして、この中で最強の武力を持っていたのが狩猟系騎馬民族の高句麗王国であり、この時点で最弱だったのが建国間もない大和国つまり日本国だった。モンゴルにはこんなことわざがある
「金持ちだか弱いと思われるほど危険なことはない、そして貧乏だか強いと思われるほど嫌われることもない」
と。最強の高句麗王国は当然のように平壌コロニー(楽浪郡)へと攻め込んだ。だか、相手はチャイナ大漢帝国。平壌コロニー(楽浪郡)自身は高句麗より弱くても大漢帝国全体と比べれはお話にならない。次から次へと送られてくる援軍によってコテンパンにのされた。そこで高句麗は作戦を変えた。平壌コロニー(楽浪郡)自体を狙うのではなく、平壌コロニー(楽浪郡)に従属する周辺諸族を撃破しコロニーを孤立させる戦術に打って出たのだ。まず、すぐ南(現在の北朝鮮カンコウ付近)の扶余系北沃沮族が滅ぼされる。チャイナ軍も反撃に出て高句麗王が戦死する事態に陥り、一時侵攻を停止するが1950年前侵攻を再開。平壌コロニー(楽浪郡)の西(現在の北朝鮮元山付近)に住んでいた扶余系東沃沮族がこれまた滅ぼされる。これで震え上がったが同じ扶余系の馬韓人達だった。当たり前だ、負ければ男は殺され女は全員奴隷として売り飛ばされるんだから。馬韓人は当事協力関係にあった南の倭族系コロニーに救援を求めた。これに九州諸国の代表として「奴王国」が答え、ここに九州諸国と馬韓諸国との同盟が結ばれた。これが日本「人」が歴史上最初に結んだ外交関係である「九馬同盟」だ。「九馬同盟」はチャイナにとっても平壌コロニー(楽浪郡)を維持するために有効であり、そこで奴国王を「漢委奴国王(漢が任命した奴の国王)」に任じ、平壌コロニー(楽浪郡)との優先的交易権を与えた。これに仰天したのが大和国つまり第5代孝昭天皇である。当たり前だ!
奴国王が漢の皇帝に任命されるとは九州がチャイナ領になるという事
ではないか!ここから、この驚愕から日本「国の外交」が始まる。建国者神武天皇が死ぬほど恐れた事態が「現実の脅威」としてやってきてしまったわけだ。すぐさま、チャイナに使者が送られたが、これが悉く九州諸国と出雲王国にとっつかまってしまい、うまくいかない。そこで今度は両国に対して日本の「独立」について頭を低くして説得するための使者が次々と送られた。だが、平壌コロニー(楽浪郡)との交易で莫大な利益を得ていた両国はまったく聞く耳を持とうとしなかった。直接的交易ルートを持たない大和国のただの嫉妬だと思っていた。説得は不可能だった。第6代孝安天皇は決断した。もはや両国を「武力鎮圧」するしかないと。
こうして、外交問題に端を発した「日本国統一戦争」の火蓋が切って落とされた。
まずは、国境を接している出雲国がターゲットとなった。1900年前、大和国は福井県敦賀市を襲撃。越諸国と呼ばれていた日本海岸の出雲系コロニーと本国との間のSLOC(海上兵站連絡線)を切断する。ついで、出雲国の宿敵である九州諸国と連絡を取り同盟を申し込む。このころ、高句麗の平壌コロニー(楽浪郡)襲撃が激化し九州諸国は韓半島で大損害を受けていたので、一も二も無く賛成し「大九同盟」が結ばれた。すぐさま、孝安天皇は九州諸国に先導を命じてチャイナに使者を送った。これが「倭面土(ワミャンド=ヤマト)国王の遣使」だ。スメラミコトの下手糞なチャイナ訳「師升」を名乗り、
「奴国王は私の部下です。私が倭国(日本国)全体の責任者です。漢の皇帝の名でそれを認めていただきたい」
見事に失敗した。正直、ストレートすぎた。チャイナにしてみれば奴だろうが倭面土だろうがどうでもいいのだ。平壌コロニー(楽浪郡)を維持する兵力が欲しいだけであり、残念ながら当事の大和国には韓半島に出兵する能力そのものが無かった。ケンモホロロニ追い返され外交で和平を一挙に実現する夢を砕かれた孝安天皇は自ら始めた「日本国統一戦争」の大事業に戻るしかなかった。幸い、戦況は極めて大和国の優位に進んだ。第7代孝霊天皇の御世の1850年前には最後まで残った長野県諏訪市の出雲系コロニーを制圧し東国を完全に掌握した。圧倒的優位を確立した大和国はいよいよ出雲王国本国への侵攻を開始する。第8代孝元天皇の御世だ。この時代がいわゆる「倭国大乱」の時代だ。まず、出雲王国の資金源を断つ通商破壊戦術が取られた。隠岐諸島が占拠され、そこから出撃した大和海軍が次々と出雲王国の船と港を襲撃し焼き払った。続いて1830年前、出雲王国の属領である辰韓コロニーに船団を派遣。出雲王国と断交するよう交渉するもどうもこれは失敗したようだ。そして1800年前、ついに首都・出雲が陥落、ここに「日本国統一戦争」は終結した。ってとこで外交史も途中だけど、今日はここまで。とほほ。
おまけにみくしー検索かけてみました。内一件はおいら自身です。とほほ。
「外交史」
日記 検索 (2件)ひっと。
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