神渡良平「佐藤一斉・言志四録を読む」より。
小才の人は他人の意見を受け入れず自分の意見に固執するが、大才の人はよく他人の意見を受け入れる。小さな知恵は一時は輝くことはあるが、大きな知恵は後々のことまでよく考えている。
小才は人を防ぎ、大才は物を容る。小智は一事に輝き、大智は後図に明らかなり。 (言志晩録249条)
ある日、彦根の清涼寺の漢三道一和尚が足にお灸をすえていると、旧知の医者がやってきた。
「和尚さん、きょうは不浄日です。不浄日にお灸をすえていると悪いことが起きますよ」と注意した。和尚はすぐ、
「ああ、そうですか。ではやめましょう」
と言って灸箱を片づけてしまった。医者は二時間ばかり歓談して帰っていった。
医者が帰ると、和尚はまた灸箱を取り出してお灸にすえかかった。それを見た小僧さんが、
「和尚さん、今日は不浄日だということでしたが、大丈夫ですか」
と問うた。
すると和尚はのんびりお灸をすえながら笑って答えた。
「心配するな。不浄日はいま帰ってしまったよ。わしは禅僧じゃ。浄、不浄に惑わされないだけの修行はしてきたつもりじゃ」
「なるほど、そういうことですか」
世の中には譲って差し支えないことが多い。客が「不浄日だ」といえば「そうですか」と応じて、客が帰れば「不浄日が帰ったよ」と自在である。
霞ケ浦の菩提禅堂の片山睡峰師は、これを評して次のように言う。
「客が主(あるじ)のときには客の心に素直に従い、自分が主のときには迷信も従わせる。自在ですね。よく座禅とは無心になることでしょうと聞かれます。無心というと、何も迷うことのない世界のように思われますが、実はそうではありません。
無心とは、道一和尚のように、その場その場を十分に生かして、自由に変化することのできる柔軟な心を言います。雀がチュンというと、チュンと聞ける。その素直の心のことです」
精進精進と努力し、力みながら、案外見落としていることがありそうだ。
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